ありがとう秋山幸二!その勇姿を忘れない。


2002年10月5日。福岡ドームでのロッテ戦を最後に、プロ野球界を『卒業』した
秋山幸二。彼なくして今のホークスは無いのではないかとさえ言われている。
そんな秋山幸二への想い出や出来事を振り返ってみよう。

秋山は熊本県の八代高校から西武に入団。熊本県といえば真っ先に思い浮かぶのが
熊本工業の名前だろう。(最近では九州学院あたり)秋山は無名に近かった八代高校の
主力選手として最後の夏の県予選に決勝まで勝ち進む。決勝の相手がその熊本工だった。
その時の熊本工には現在も西武で現役を続ける伊東勤がいた。結果、八代高校は惜敗。
惜しくも甲子園出場は叶わなかった。
しかし高校時代から走攻守三拍子揃った好選手との評判は高く、早い段階で一軍に昇格し
その存在をアピールしていく。のちに同じく西武に入団した清原和博とのAK砲は他球団の
脅威となった。さらには後ろにデストラーデという強打の外国人まで。1983年からの12年間で
実に10回の優勝という、まさに西武黄金時代のまぎれもない主役だった。
秋山といえば豪快なホームランもそうだが、同様に豪快な空振りも魅力の一つだと思う。
通算の三振数も歴代上位にあるはずである。そして華麗な守備。恐ろしく広い守備範囲と
強肩は相手打者のヒット性のあたりを止め、本塁上のクロスプレイを数多く演出したものだ。
センター秋山、ライト平野謙の右中間は、どこに飛んでもアウトになるような感覚だった。
忘れてはならない秋山の代名詞と言えば『バック転』ではないだろうか。日本シリーズでの
ここ1番で出たホームランの時、ホームベース上にバック転でホームイン。ファンの歓声を
受けていた。

そんな秋山に転機が訪れる。93年のオフに大型トレードで福岡ダイエーホークスに移籍。
この時の秋山の心境はどんなものだったのだろうか?全く想像がつかない。
94年のキャンプインの後、選手の覇気の無さを強く感じたと何かの雑誌に語っていたのを
記憶している。
シーズン開幕。当時の根本監督は、秋山がどんなに不調でも4番を外さなかった。真の
4番打者とはこういうものだというのを若手に伝えたかったのだろうか。この年は打線の
力でペナントに旋風を起こすも、貯金9でありながらゲーム差無しの4位に終わる。
シーズン終了後に王貞治監督が就任。王監督の下、チームのキャプテンに指名され、
負け犬集団から闘う集団への意識改革を進めたが、3年間は結果を残せず、4年目に
同率ながら3位とAクラスに進出。そして99年のシーズンを迎えた。
この年は開幕から投打のバランスがかみ合い、快調に白星を重ね首位を走る。
しかし夏場から、ほとんど優勝経験の無い若手がプレッシャーで実力を出し切れず、
調子を上げてきた西武の猛追を受ける。
そして9月8日、1.5ゲーム差で迎えた福岡ドームでの直接対決。西武のマウンドには
松坂大輔。秋山の第1打席で、悲鳴が球場内を駆け巡る。
何と松坂の投球が秋山の顔面を直撃。病院直行となってしまった。
この試合を落とすと西武逆転優勝の芽が大きくなる一戦。試合は接戦のまま終盤に
もつれ込んだ。そしてベンチに秋山が痛みを押して戻ってきた!一気に活気付くナイン。
最後は井口忠仁のサヨナラ満塁本塁打というド派手な一撃でホークスが勝利を握った。
怪我の後も秋山は登録抹消はされず、わずか2日休んだだけで戦列に復帰。
優勝決定試合となった9月25日の日本ハム戦では先頭打者本塁打でチームに勢いを
与え、王監督の次に宙に舞う秋山の姿があった。
さらに中日との日本シリーズでも攻守に活躍を見せ、見事MVPを獲得した。

晩年は腰痛との闘いで思うように数字が残せず、本人が一番悔しい思いをしたに
違いないだろう。しかし2000本安打も達成し、充実の野球人生では無かったかと思う。
それは西武ドームでも引退試合をぜひにと西武球団からも要請された点にもあげられるのでは
ないだろうか。
もちろん選手として相当にすばらしい成績を残してきた秋山だが、それ以上に記憶に残る
すばらしい選手だったと思う。
将来はぜひ、ホークスのユニホームに再度袖を通す時が来る事を切に願う。

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