さらば若田部健一!鷹での11年間を振り返って。


2002年10月31日。FA(フリーエージェント)宣言を行い、11年間過ごした
ホークスを離れようとしている若田部健一。
弱小ホークス時代も、強いホークスも優勝も経験した『万年エース候補』だった
若田部健一。彼への想い出や出来事を知っている範囲で振り返ってみよう。

今から11年前の1991年。神奈川大学のエースだった若田部健一はその年の
ドラフトの超目玉選手であった。ホークスも含め複数の球団が1位指名した程の
投手という高い評価を得ていた。抽選の結果、ホークスが交渉権を獲得し入団。
当時は若田部というすごいらしい投手が入団するのはいいが、万年Bクラス球団の
悲しさか、若田部1人入団した所で一気に上位はうかがえないと悲観的だった。

ルーキーの年、オープン戦では積極的に起用されるが結果を残せず。それでも
強引に公式戦でも先発で使い続け、最終的には10勝13敗とそれなりの成績を
残す。当時の弱いホークスでのこの成績はまずまずだろう。
記憶に残っているのは、翌年から福岡ドームに本拠地を移す事が決定していたため、
それまでの本拠地、平和台球場での最後の公式戦である。その試合に若田部は
先発。相手は近鉄の、当時パ・リーグのエースで現在メジャーで活躍中の野茂英雄と
いう顔合わせだった。そこで若田部と野茂は白熱の投手戦を演じ、結果1−0で
ホークスの勝利。若田部は野茂に投げ勝ち堂々の完封勝利を挙げたのだった。

2年目以降も更なる飛躍が期待されたものの、伸び悩みなのか力不足なのか、
今ひとつ成績が上向きにならない。2桁勝利の年もあったが、首脳陣の全幅の信頼を
勝ち得るまでには至らず、絶不調の時は中継ぎ、敗戦処理に回された事もあった。
そんな中、チームは着実にステップアップし、1999年。若田部入団8年目に悲願の
リーグ優勝を果たす。その年の日本シリーズは4勝1敗で中日を倒し日本一に輝いたの
だが、唯一の敗戦が第2戦に先発した若田部だった。打ち込まれた記憶が残っている。
その年のオフ、エース工藤が巨人へ移籍。真のエースへの期待を一身に背負うも結果
9勝止まり。チームに2桁勝利投手ゼロでの優勝という珍しい記録になった。
この年あたりから、若田部に『西武キラー』の称号が付く。ちょいと曖昧だが、優勝争いの
まっただ中、敵地西武ドームでの3連戦に連敗。ここで負ければ一気に失速という3戦目に
見事完封勝利!その後西武ドームでの対西武3連戦3連勝を含む9連勝で一気に西武を
抜き去り優勝へと導いたのである。

そして今年、キャンプでは投手陣の誰よりも多く投げ込みをし、今年にかける意気込みは
感じ取れたが、オープン戦で結果が出ず開幕2軍スタート。1軍昇格後も始めは中継ぎ
だったが、結果を出し先発に復帰し、6連勝で前半戦を終え、初めてオールスターにも
選ばれた。ところがところが、その後信じられない7連敗を喫し、ホークス優勝が遠のいた。
確かに打線の援護がもう少しあれば…という試合もあったが、そこはエースと仮にも
呼ばれるのなら何とかして欲しいものだ。
優勝は絶望となった後も西武相手には意地をみせ勝ち星を重ね、何とか10勝に到達した。
しかし思うに若田部が1年間フルに、コンスタントに成績を残したシーズンがあったのか?
と考えるとちょっと記憶にない。そのあたりが『万年エース候補』止まりの若田部を象徴
しているかのようだ。

それでもホークスに必要な戦力であることには変わりない若田部だったが、本人も残留を
基本線に考えていたようだが、大人の事情というやつによりホークスを去る事に。
今は「11年間ありがとう。新天地でも頑張って。」と言いたい。

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