18.西都原古墳群

日本人のルーツ、日本人はいつ頃から日本列島に住み始めたかについては、はっきりしていないようです。Wikipediaによると、日本で発見されたナイフ方型石器を検証することにより10万年前から3万年前ではないかとのことです。そしてその後1万4000年前までが旧石器時代となります。それ以降が縄文文化となるわけですが、縄文人は結構すぐれた文化を持っていました。縄文式土器を作り、竪穴式住居に住み、巨大な木造建築も作っていたとのこと。びっくりするのは、すでに米を栽培していたらしい。古代米(赤稲)の事でしょうか。この稲は、稲の原種である野生稲の特徴を受け継いでいます。赤飯の起源だそうです。最近、クローズアップされています。NHKで特集しているのを見たことあります。種子島で栽培されているようです。この稲、荒れ地、無肥料でも丈夫に育つそうですが、収穫量が少なく脱穀しにくいとのことです。
さて、今から2100年前になりますが、日本列島に西から中国人が大挙上陸してきました。当時中国は、漢の時代、戦争争乱に明け暮れた時代、当時の洛陽の人々は戦禍を逃れるためそまつな木船、竹船にのって、楽土へ楽土へと、わらをすがる思いで、稲と金属武器を持って日本へ押し寄せました。(この事実は、当時中国の文献に書いてあります)しかしほとんどは、海の藻屑となりましたが、運良く上陸した彼らは、打製石器、骨角武器しか持たない縄文人を蹴散らしました。弥生人の登場。武器で劣る縄文人は日本列島の北と南に追いやられました。また彼らは遺体を埋葬するとき、必ず故郷である洛陽の方向に顔を向けたそうです。しかししばらくすると、弥生人と縄文人は和解して混血となりました。(当時の頭蓋骨を調べたらその形状から明らかになったそうです)このころから稲作が広く伝わり、低地に水田を作り始め、弥生式土器を作り、鉄器を使い始めました。しかし、それぞれの集落の間で戦いが絶えず、周りを濠で囲った環濠集落ができました。そしてそれぞれの地方にクニが生まれ、そのクニの首長の遺体を安置する墳墓が築かれ始めました。
古墳時代の始まりで3世紀から7世紀頃です。

西都原古墳群は、宮崎県西都市大字三宅にあります。撮影は2006年5月25日。
場所は西都市の西方向の丘陵地で、その点在状況から第一古墳群、第二古墳群、第三古墳群に分けられています。全部で311基の古墳がそれこそ累々と存在しています。
最も大きな古墳は、円墳である男狭穂塚(おさほづか)、前方後円墳である女狭穂塚(めさほづか)ですが、廻りが照葉樹で囲まれているため、全容は見えませんでした。

第二古墳群です。平坦な大地の上に、ポコン、ポコンとあります。

第一古墳群です。ここは、静かで昼寝にうってつけ。

鬼の窟古墳(おにのいわやこふん)です。直径37m高さ7.3mの円墳で、墳丘の周囲に外堤と二重の堀があります。西都原古墳群の中で唯一の横穴式石棺を有する古墳で平成7年度の調査によって、石棺の中から組み合わせ式木棺と推定される鉄釘、耳環、金銅装馬具、須恵器、土師器などが出土し調査終了後、現在の形に整備されました。
創築年代は、6世紀後半から7世紀はじめです

石室は、大きな石を使って横壁を内側に傾け、天井に大きな石を載せるタイプです。
石室の入り口のクスノキの根が張りだして、石室が崩れ始めたため、クスノキを除去し、元の石を元の位置に復元したそうです。
さっそくオーブが見えます。入り口のところで見張っているように見えます。

石室の中は、ライトアップしてあります。

もし、天井の石が崩れたらひとたまりもない。

隣の205号墳です。直径14m、高さ3mの円墳です。1912年の調査で土器が発見されました。創築年代は、6世紀後半から7世紀はじめです。

鹿児島から小学生が見学にきていました。