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磯 の 香 り

「おやっ、今夜は魚料理か」

「そう、このクロダイ叔父さんから頂いたのよ」

「叔父さんも釣り好きだからな」

 黒鯛【メジナ】は鹿児島県の志布志湾で釣ってきたものらしい。

「かなりの大物だったわ」

 妻は魚料理が巧みだ。一匹をさばいてまず刺身。片身の煮付け、頭や骨身の

味噌汁と三品を作っていた。どれもうまい。焼酎を飲んだ、これもうまい。

「父が逝って、もう何年になるかな」

「ええっと・・・もう十七年よ。時が経つのは早いものね」

 当時、父は本格的な漁船を持っていて志布志湾の福島港に置いていた。飴の

製造販売業を営んでいたが、釣りの腕は漁師とほぼ同格。大の釣りキチだった。

「そうか、もうそんなになるか。たまには俺も一緒に行ったものだったな」

「なに言ってるのよ。たまにはじゃなかったでしょう。あきれ果てるほどだっ

たじゃないの」

「うんまあな。・・・ん、あっ、あれは確か梅雨の頃だったと思うが、沖から

浜に船を流しながらキスを釣っていたんだ。十二、三センチから二十センチ前

後のやつが次々に釣れるんだもの、そりゃ夢中になってね」

「刺身コリコリ、天麩羅うまし。でも珍しいことじゃなかったじゃないの」

「それがだ。ふと気がつくと、東の海上から豪雨がやってくるんだ。まわりは

晴れているのにだよ。虹を伴っていて奇麗でね。通り雨の凄いやつ」

「ははーん。ずぶ濡れになったってことなのね」

「残念でした。船を全速にして、沖にまわり込んで逃げたんでやんす。いやー

面白かったな」

 私はネギと生姜を入れて醤油で煮付けた白くふっくらとした身を味わった後、

焼酎を口に含んでゴクンと飲んだ。

「通り雨をやり過ごしてからも、いっぱい釣りましたですよ。ところが潮止ま

りでパッタリ。いくら頑張っても潮が止まると何も釣れないんでやんす。で、

イカリを放り込んで、弁当を食べたってわけ。カッオ節に醤油をかけたやつを

ご飯の上にまぶして、梅干しを乗っけただけのだったけれど、これが実に旨い

のでやんした」

「そんなの簡単だから、いつでも作ってあげるわ。焼酎を注ぎましょうか」

 私はコップに半分ほど注がれた焼酎を一口飲んで、にっこりした。

「食べ終えてしばらくすると、潮が流れ出したんだろうな。まるで切り捨てら

れたばかりのような、葉を青々と茂らせた一本の大きな竹が船のそばに漂って

きたんだ。どこから流れてきたのか、ちょっと不思議だったんだが、それより

も驚いたことに。・・・・なにがあったと想う」

「まさか椰子の実がどんぶらこっこなんてことは」

「ううん、時にはそのまさかってのもあるにはあるんだけど、この時は違いま

したんでござる。不正解。残念でしたね」

「ふん、そうでございますか。ぜんぜん想像がつきませんです」

 妻はぷっと頬を膨らませたかと思うと、うふっと吹き出した。

「では教えてしんぜようぞ。青竹の下にはですぞ。なんとなんと黄色い側線の

ある大きな魚が群れていたんでござるよ」

「へぇーそんなこともござるんでございますか」

「それがござったんでござる。だから、急いで丈夫な仕掛けを取り出してです

ね。キスの切り身を鈎に刺して、ポイッと投げ込んだのでやんした」

「それ、釣れたのでござりまするか」

「途端にガバッときたね。けど、次の瞬間にはビヤーグイグイっていうか、物

凄いスピードで突っ走るんだもね。これはもう釣りの醍醐味なんてもんじゃな

かったよ。道糸をどんどん出して、魚まかせさ。船の近くだったし、しかも上

層で食いついたもんだから、とてもとても」

「じゃ結局は逃げられたんでございますか」

「いやいや、とんでもないですよ。道糸を出しきってからが大格闘でござんし

た。魚との距離が離れたもんだから、なんとか持ちこたえたんでやんす」

「それはそれはようござんしたね。で、なんの魚だったの」

 妻が刺身にワサビをまぶして、醤油につけた。私はそれを口に放り込んだ。

ほどよく身がしまっていて、とても旨い。

「ヒラマサでござんした。量ったわけじゃないけど、七、八キロはあったかも

ね。こんなにデッカイやつ」

「ヒラマサって、あのブリにそっくりな」

「そうでやんす。だけど、ブリのように脂こっくはないですね」

 私は煙草に火をつけて、いっぷく吸った。

「キス釣りならそう沖に出ていたわけじゃないんでしょう。いる所にはいるも

のなのね」

「そうなんだ。浜の波打ち際から三、四百メートル沖でござんしたっけ。でだ、

親父さんがというより、おれもなんだが。暗黙の了解でですな。もう一匹捕ろ

うということになりましてな」

「でも先ほどの騒ぎで群れは散ったのじゃなかとですか。竹はどうなったの」

「だいぶ沖を漂っていましたですよ。でありましたですからな。青竹のずっと

手前でエンジンを切って、そっと近づいたんでやんす。まだ群れておりました

ですよ」

「あらまーそれはよかったこと。では二匹目をお釣りあそばされたのですね」

 妻が湯飲み茶碗を右手で取って、クスリと笑った。

「あん、いや、今度のは親父さんが要領よくお釣り上げにあそばされましたん

でありんした。一匹目とほぼ同じ大きさのをでやんす。まあーさすがに群れは

散ってしまったけど」

「ふっふっふっ、めでたしめでたし。はいどうぞ」

 私は刺身を食べてから、焼酎を飲んだ。いい気分だ。この時、あの日の出来

事が鮮明に脳裏をかすめたのであった。

「帰港の途中で、あらかじめ沈めておいたカニ籠を引き上げたんでやんすよ。

これがまたなんというか。カニが入っていたのは当然なんだけど、ん、三十匹

ほどだったかな。そしてびっくり、何が入っていたと想う」

「さあーなんでしょうね。ギブアップにてござりまする」

 妻が両手を広げて、おおげさに小首をかしげて見せた。その仕草があまりに

も滑稽だったので、私はあはっ、と笑った。

「あなた様の頭ぐらいの大ダコなんです。タコがですよ、タコ」

「ありゃまあー。でもカニ捕り用なんでしょう。どうやって入ったのかしら」

「タコってのは軟体生物だし、カニを食いたい一心だったんだろうね」

「へぇータコはカニが好物なんですか」

「まあーね。カニもだけど、アメリカンザリガニとかも好きなんでやんすよ。

それはともかく、二度びっくり。そのタコを狙ってですね、はたまた五十セン

チほどもあるシマイサキも入っているじゃないですか。だはっ、大儲けだった

でやんした」

「海ってなにが起こるか分からないものなのね」

「だから、海っていうか、釣りは面白いんだよね。心がわくわくするんでやん

すよ」

「あの船、手放さなけばよかったのにね」

「船の舵は親父さんと交代で取っていたし、できれば残しておきたかったでや

んす。けれど、おれは船舶免許を持っていなかったしな。まあー持っていたと

しても車というか、足もなかったからな。残念無念ではありましたけどね」

 私はご飯を食って、鯉コク風味の味噌汁を啜った。頭や骨身のダシと生姜の

辛みや香りが効いて絶妙の味だ。まさに磯の香りである。鮮度がいいので、煮

付けの身もホクホクとして美味しい。ご飯をもう一杯食った。

「カニといえば、真水で洗っちゃあダメなんでやんす。捕ってきたのをそのま

んま湯がくんですな。そうすると、潮の味がして絶品。これがまた旨いのでご

ざる。うっひっひー。カニの食べ方講座になっちゃった」

「自分たちで捕ってきた物は、なんでも美味しいものなのね」

 妻がお茶を注いでくれた。私は箸を置いて、お茶を飲んだ。

「叔父さんにお礼をいっとかなくっちゃあな」

 叔父の家はすぐそこである。お陰で今夜はメジナの魚料理を堪能できた。





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著者  さこ ゆういち