トップページ
白い花と赤い実      
 サクランボの赤い実がぶらさがる、すぐ近くで白いミカンの花が咲いた。

 こうして小さい花を眺めていると、ミーカンのー花がーさーいていたー

おもいでのー道ー丘の道ーーと、歌声が聞こえてきた。そして、頭の中に

海の景色が広がった。よく父と釣りに出かけた志布志湾を連想したらしい。

 手足の不自由な私を、幼い頃から川や海に連れて行ってくれた父。亡く

なるまでに何千回だっただろう。あるい何万回を越えていたかも・・・。

 おそらく、それは私の身体を気遣ってのことで、釣りという遊びを通し

てリハビリをさせていたのではと。なぜなら、動かなかった手や足が徐々

にではあったが、動かせるようになったからだ。

「右手を出せ」

 私が幼少の頃の、これが父の口癖であった。当時の私の右手は身体の後

ろ、腰のあたりに固定されたように動かなかったのである。で、川の釣り

に行く時は自転車の荷台に乗せて。幸い比較的に左手はマヒが軽く、荷台

の取っ手を掴むことができたからだ。しかし、左手だけでは不安定なので、

ついつい右手を出してしまう。かなり荒っぽいやり方だったが、釣りに行

きたい一心からか、私も必死だったのであろう。

 川でも海でもそうだったが、座った私の右前に、魚が掛かるばかりにし

た竿を置いておく。そうしておいて父は父で勝手に釣る。後は知らぬ顔と

いうわけ。竿先がググッと引き込まれると、思わず右手を出そうとする私

がいた。結局は左手で釣り上げるのだが、そうしたことを繰り返している

うちに段々と右手が出せる、動かせるようになってきたのである。

 私はこれを【無意識の自由な動き】だと思う。【思わずできてしまう事

あるいは時がある】例えば、ワイシャツなどのボタン掛け。意識して【か

けるぞ】と意気込んでいる時はなかなか掛からないのであるが、外れたボ

タンを鼻歌まじりに触った時はスルッと掛かる場合がある。要するに【や

ろう、やろう】とする意識が逆作用しているのでは、と思えるのだ。

 それでなくとも釣りは楽しいし、川や海を眺めているだけでも気持ちが

晴れる。父も同じではなかっただろうか。

 サクランボもミカンも長男坊や次男坊が高校に入学した記念として植え

たもので、どちらが先だったかは忘れた。植えてから三、四年目になる。

 記念にとは書いたが、もちろんその意味も含み、私にはもっと別の意図

があったのである。ふたりとも大学をめざして欲しいと。そして社会に貢

献できる人にと。まあーそんなに高望みはしないまでも、願いがあった。

 父ほどのことができたかどうかは分からないが、長男坊は第一関問突破。

続いて次男坊も突破。今のところ順調に進んではいるけれど、一生のうち

には波乱もあるだろう。そんな時はこの苗木のように、その都度その風雪

に耐えて欲しいもの。

 はーるかにー見えーるー白い雲ーーおー舟がーひとつー浮かんでるーー

 つい口ずさんでしまった。四十数年ほど前に歌っていた童謡なので、歌

詞を間違えているかもしれない。

「でもいいか。気にしない。気にしない」

 我が家の庭は梅がないので、まず桃の花が咲いて春らしくなる。次にエ

ビネなどの草花、ツツジ類や海棠ざくらが一斉に咲き誇る。二本の木蓮は

白鳥が舞っているかのようである。

 イチジクやユズもあり、これらはかなり大きいし、毎年いっぱい実をつ

けてくれる。それに比べて、サクランボもミカンも私の胸ぐらいの高さで

しかない。

 サクランボは買ってきた時から実っていたが、ミカンの方は花が一昨年

からで、実ったのは昨年からだ。小ミカンであった。

「これはこれは・・・・。うん、うん」

 思わず、にっこり。これが意外と甘くて美味しいのだ。ちょっと得をし

たような気になった。

 息子たちも後ひと息。やがて巣立っていくだろう。親バカだろうと何だ

ろうと、かまいはしない。さあー出航準備だ。

 花咲く頃には、あの歌を・・・・・。おっ、一句できたぞ。

 ミカンばな 見ては思い出 海景色

 2000年皐月の末にて。




ツールバーの戻るボタンをクリックしてね。
 
著者  さこ ゆういち