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アローの臭覚
 アローは秀雄君の命令どおり動くようになった。

 朝はアローの食事と排便の世話をしてから、登校する。

 学校から帰ると沖水川での訓練を半年以上も続けてきたのだった。

「ジョギングの途中で落したらしいの。いつもは財布なんか持っていかないのだけ

ど、朝市で花の種でも買おうと思ったものだから」

「それはとんだ災難でしたわね」

「お金はたいしたこともないのだけど、ただ保険証が・・・・・」

 秀雄君が顔を洗って、茶の間に入っていくと、話し声が聞こえてきた。

「おばあちゃん、そのタオルちょっと貸して。ぼく、アローと探してくるから」

 毎朝、おばあちゃんは暗い内から散歩に出かけている。いつもコースは決まってい

て、秀雄君も何回か一緒に行った事があった。

「アロー・・コイ・・匂いを嗅ぐんだ」

 秀雄君は犬舎からアローを出した。

 アローはだいぶ大きくなっているが、秀雄君はその鼻先にタオルを押しつけ、それ

から口にくわえさせてやった。犬は鼻だけでなく、口の中にも匂いを感じる非常に敏

感な器官があるからだ。

 臭覚訓練と追跡訓練は最近はじめたばかりで、できるかどうかは秀雄君にも判然と

しない。とにかく、やってみるだけだ。

「サガーセ」

 半信半疑の秀雄君が右手を水平に上げた。まだ早朝で通行人の姿もほとんどなく、

匂いが鮮明に残っていたのだろう。アローは鼻を低くして追跡を開始。

「よし、いいぞ」

 秀雄君が思わず、つぶやいた。アローはゆっくりと歩いていく。引き紐を長くして、

秀雄君は後を追った。最初の十字路を左に曲がり、そこからは一直線に進んだ。

「これはやっぱり・・いつものコースだな」

 田んぼ道にさしかかった所でアローは立ち止まり、秀雄君の顔を見上げた。

「アロー、モッテコイ」

 枯れかかる草むらの中から、アローは財布をくわえてきた。

「ヨーシヨシ、ヨーシヨシ」

 秀雄君は首を撫でてやると、アローを駆けさせて急いで帰ってきた。

「ばあちゃんの財布、これじゃない?」

「それそれ、それなのよ。秀雄ちゃん、アローありがとう」

 財布を受け取って、おばあちゃんがアローを撫でた。

「秀雄、そこまでアローをよく訓練したな。来年は訓練競技会に出てみるか」

 お父さんがタオルで顔を拭きながら声をかけた。

「それ難しいのじゃないの?」

「今までやった訓練と物品選別訓練を続ければいいんだ。後は障害物の飛び越しだ」

「なんだか面白そうだな。アローやってみるか」

「十一月中旬に、宮崎市内の大淀川河川敷で警察犬訓練競技会があるそうだ。秀雄、

行って見学するか」

「秀雄、ご飯たべないと学校に遅れるわよ」

 家の中からお母さんの声が飛んできた。
  
 今日は九時半から校内マラソンがある。秀雄君の通う小学校は大淀川のすぐ近くで、

その堤防がコースだ。

 四年生の中では、秀雄君はかなり速いのだが、一人だけ強敵がいた。それは同じク

ラスの木村君だ。

 今回も木村君と並んで先頭を走っていたのに、秀雄君はゴール寸前で抜かれてしま

った。ちょっぴりくやしかったけれど・・・・・・・・・・・・・。

「これを掴んでくれないかな」

 ビニール袋を五つ机の上に置いて秀雄君が手招した。

 袋の中には、よく洗った布ぎれが入っている。

「ああ、いいよ」

 木村君がまっ先に袋の中に手を入れた。

「君はこっち。君はこれだ」

 他の四人にも布ぎれをそれぞれ掴んでもらった。

「木村君、帰ってから沖水川に来てほしいのだけど」

「なんだい。なんかあるのかい」

「犬の訓練を手伝ってくれないかな」

「うん、行ってもいいよ」

 木村君の家は学校のすぐ近くだ。大淀川と沖水川の堤防は続いているので、木村君

は自転車で行くつもりらしい。

 学校から帰ると、秀雄君はアローを連れて河川敷に行った。

 木村君はまだ来ていなかったので、先に物品選別訓練をすることにした。五人のク

ラスメートから、それぞれ掴んでもらった布ぎれを、間隔をおいて芝の上に並べてい

く。それをアローに選別させるのだ。

「アロー・・モッテコイ」

 真ん中に置いた布ぎれと、同じ布ぎれの匂いをアローに嗅がせた後、秀雄君は右手

を上げた。

 アローは五メートル先まで歩いていくと、右から順に布ぎれを嗅ぎ分けている。

「ヨーシヨシ、ヨーシヨシ」

 真ん中の布ぎれをくわえてきたので、秀雄君はアローの首を撫でてやった。

 アローが嬉しそうにしっぽを振った。

「やあー大野君、待ったかい」

 アローが四つ目の布ぎれを嗅ぎ分けた時、木村君が自転車に乗ってやってきた。

「いや、ちょうどよかった」

「シェバード犬って、すぐ大きくなるんだな。名前はなんだったっけ」

 木村君はアローが子犬の頃、秀雄君の家に二度ほど遊びにきたことがあった。

「アローだよ」

「ああ、アローだったね。よしよしアロー」

 木村君は両手でアローの首を撫でて、秀雄君の顔を見上げた。

「木村君、そこ辺りをジグザグに歩いて、できるだけ大きく回ってきてくれない」

「いいよ。追跡訓練をするんだね」

「そうだけど、正式には追及訓練なんだってさ」

「追及か・・・・それじゃ、行ってくるよ」

 芝の上を踏みしめるようにして、木村君が歩いて行く。

 やがて、ぐるっと一周して木村君が戻ってきた。

「アロー・・・サガーセ」

 木村君の匂いのついた布ぎれをアローに嗅がせて、秀雄君は右手で芝の上を指した。

 鼻先を芝すれすれに近づけて、アローは追及を開始した。

「ぼくの足跡をアローは確実に追っているぞ」

 木村君はつぶやいて、手を叩いた。

 ふと見上げると、北西の彼方には霧島の峰々が西陽を受けて、くっきりと浮かび上

がっていた。

 数日後、秀雄君はお父さんと警察犬訓練競技会を見学に行った。

 出場している犬種はシェパードが多いいけれど、ドーベルマンやボクサー、コリー、

エアデールテリア、ラブラドールリトリーバーなどもいる。どの犬もよく訓練されて

いて、見事な競技会風景だ。

「わあーすごいな。あんな科目もあるの」

 驚いて秀雄君が目を見張った。

 アローが低く唸った。

 防具をつけた人間を犬に襲わせる競技だったからだ。

 続いて、その人間が逃げないように、犬に監視させている。

「秀雄、あれは警戒の部の競技なんだ。つまり、捜査中に容疑者、あるいは犯人を発

見した場合を想定して行なわれる競技なんだよ」

「ふうーん、そうなの。でもアローとぼくにはできそうにないな」

「アローは物品選別の部と足跡追及の部だけでいいんだよ。秀雄、来年は出てみるか」

「それなら、なんとかできそうだな」

「競技会はこれで終わりだ。せっかく宮崎にきたのだから、釣りでもして帰るか」

 お父さんに似て、秀雄君も釣りが大好きだ。

 大淀川の河口で釣るつもりだ。車のトランクに釣り具や釣り竿を入れてきた。途中で

釣具店に寄ってエサを買った。運のいい事にモエビが手に入った。生きたモエビだ。

「お父さん、ここは深みがあって、釣れそうないいポイントだね」

 リールの糸を竿のガイドに通しながら、秀雄君が目を細めてにっこりした。

 満ち潮なので海水が川に逆流してくる。河口から沖は広大な太平洋だ。

 お父さんはモエビを二本の釣り鈎に刺すと、オモリ仕掛けを投げ込んで置き竿にし

た。秀雄君は一本鈎でウキ釣りだ。

 しばらくして、お父さんに当たりがきた。

 コッコッ、コッコッ、と竿先が振れている。

 お父さんが竿を大きく立てた。

「これは小さいな」

 上がってきたのは手の平ぐらいのカレイだ。

「ほいきた。・・・・・・また似たようなカレイが二匹か」

 お父さんが三匹釣ったところで、秀雄君にも待望の当たりがきた。遠めに投げ入れ

たウキがスーッと消えていった。

 一呼吸おいて秀雄君は竿をグイッと立てた。『ゴーッ、ゴーッ』とアローが吠えた。

「掛かったぞ」

 途端に釣り竿が弓なりになった。

 魚が走る。

 アローが水ぎわに立って、見ている。

 秀雄君は竿の弾力で力をためながら、慎重に魚を岸へ寄せていった。

「こいつは大きいぞ。秀雄、あわてるな」

 タモを手にしたお父さんの方が興奮気味のようだ。それでも、がっちりと魚を掬っ

てくれた。

 再びアローが吠えた。

「やったな秀雄、一キロ弱のチヌだぞ」

 秀雄君が釣り上げたのは、銀白色の美しい魚体と、ふてぶてしい面構えをしたクロ

ダイだった。

 アローが鼻先を近づけてクンクンと匂いを嗅いだ。




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著者  さこ ゆういち       
警 察 犬 ア ロ ー