トップページ
 昭和四十七年春。
 畑中三郎はゆっくりとした足どりで階段を登って行った。二階に碁会所があったからである。そっとドアを引いて中に入った。
「やあーいらっしやい」
 そこの席亭らしい痩せ形の男が愛想笑いを浮かべて、三郎の方に視線を向けてきた。
「ちょっと見せてもらいます」
「どうぞ」
 三郎は辺りの様子を眺めた。十数人の男達が碁を打っているが、ひとりだけ煙草をふかしながら他人の対局を観戦している老人がいた。
「打ちませんか」
 近づいて声をかけると、三郎は老人と向き合って椅子に腰を落とした。頭髪は白髪まじりだが、背広を着込んで身なりがいい。
「お願いできますかな」
 老人と見たのは間違いのようだ。顔立ちは六十前後か、それにしても声が若々しい。
「何段ですか」
「五段です」
 自信ありげに目を細めたところを見ると、棋院の免状を持っているのかも知れない。
「じゃ同格ですね。握りでお願いします」
 本来の実力からすれば、四子(よんもく)置かせても充分こなせる相手だが、素振りにも出さず、三郎は白石を掴んで碁盤の上に突き出した。
 三郎は父である畑中徳蔵が打っているのを見て、いつの間にか碁を修得したのだった。三郎の上達は抜群で、小学四年の時にはアマ五段の徳蔵をも既に打ち負かしていた。三郎は三男坊だからプロ棋士にしたいと思ったのは、碁キチ徳蔵ならではの発想だったかも知
れない。
「コミがかりの細かい碁ですね」
 終局間際に相手が盤面から顔をあげ、三郎の顔を見た。
「私の一目半負けですか。いやーお強いですね」
 作り終えて、三郎はいかにも残念といった顔をして見せた。
「もう一局お願いできませんかな」
「ええ、いいですけど、今度のは夕食でも懸けて打ちませんか」
 さりげなく三郎は相手の顔色を窺った。
「ほう、それはいいですな。それでやりましょう」
 にこやかに微笑みながら相手が煙草を取り出して、火をつけた。
 三郎が五年生になる少し前、中山秀雄九段が隣町に呼ばれて来たことがあった。徳蔵はその好機に三郎を内弟子にと頼み込んだのである。通常はこんな形で内弟子にはしないのだが、指導碁で打った一局で中山九段は、三郎の非凡なヨミ筋を感じ取ったらしい。だか
ら、この話しは一発で決まった。
「こんな子供をひとりで東京へやるなんて、あんた心配じゃなかとですか」
 話を聞いた母千代は、徳蔵に食ってかかった。戦後の復興の波に乗り、徳蔵は廃品回収業で財を築いた男である。
「男はいずれ独り立ちせんといかん。三郎も薩摩ん男じゃ。なんも心配なか」
 戦前生まれの徳蔵は宮崎県都城市に隣接する鹿児島県側の片田舎で育ってきた。そうした土地柄の性もあるのか、薩摩気質というものが育まれているのかも知れない。
「女の出る幕ではなか」
 徳蔵が言い出した事は、結果的に千代も諦めるしかなかったようだ。
「いいか三郎、おまんさあも男、薩摩隼人でごわんど。男がいったん志を立てたとじゃっで、入段するまではどんな事があっても、帰ってくる事はできもさんど」
 これは、中山九段宅まで三郎を送ってきた徳蔵が別れ際に諭した言葉であった。
「今度は私の半目勝ちのようですね。悪い碁をひろわせてもらい、有難かこっでごわした」
 大げさに一礼して、三郎はぎこちなく恐縮してみせた。
「いい、いいと思っていたもので、つい気がゆるんでしまったようです。・・ところで、鹿児島の方ですか」
「そうです。といっても宮崎県境の都城市に近い財部町ですが」
「ほう、そうでしたか。さて、約束は約束ですから雑飼隈で夕食といきますかな」
 どうやら、相手は約束を守る紳士のようだ。
 ふたりは碁会所を出て、西鉄春日原駅に向かった。駅までは歩いて一分もかからなかった。三分ほど待って、博多行き電車に乗った。次の駅が雑飼隈、南福岡界隈である。商店街の中にある寿司屋に入った。
「まず一杯どうです」
「おっ、有難う御座います。では一勝一敗の引き分けということでカンパイといきますか」
 相手の盃に三郎が酒を注いだ。こうして親しくなれるのは囲碁が手談といわれる由縁かも知れない。
「さあ、どんどんやって」
 にぎられてくる寿司を相手が勧めた。三郎は寿司をつまんだ。
「ところで、春日原の碁会所にはよく行かれるんですか」
 噛みくだした寿司を飲み込んで、三郎はさぐりを入れた。
「いえ、今日で二回目です。まあ、こちらの方はよく行きますがね。どうですこれ食べたら、ちょっと覗いてみましょうか」
「そうですね。連れていってもらいましょうか」
 三郎は弟子入りして四年目に入段したのだった。将棋のプロは四段からで、囲碁は初段からがプロ棋士になる。そうした違いもだが、囲碁は給料制でない点に大きな違いがあった。現在はいざ知らず、低段者のうちは各棋戦の対局料が入る程度で、後は指導碁を打ち、
自分で稼ぐ。だから安定した収入がないので自活したり、独立しては生活できない。三郎は十七歳で二段。さらに二年後には三段と順調に昇段していたが、内弟子生活は変えようがなかった。
 師匠の中山九段には娘がひとりいた。三郎より二つ上の幸子という娘だ。碁は打たない。高校を出て家事を手伝っていた。特に美人というのではなかったが、笑顔を絶やさないぽちゃりとした容貌が好ましく映ったのか、若い三郎には悩ましい存在であった。
「ここが雑飼隈の碁会所ですよ。よおっ、席亭。この方がここの川原さんです」
 碁会所は寿司屋から二、三分の所だ。相手は右手を上げて、川原を手招きした。
「おっ、これは村岡さんじゃないね。あはっ、いやですたい。みんなは源しゃんと呼んでくれとりますけん、さんで呼ばれると身体中がむずむずするごっある。じゃけん源と呼んでくんしゃい」
 血色のいい丸顔に笑みをたたえて、川原源吉が太鼓腹を撫でた。
「畑中三郎です。よろしく」
「源しゃん、こんお方は懸賞を打ちなさるとたい」
「それはよか。で、村岡さん、こちらさんはどうして打ちなさっと」「五段じゃけんど」
 碁打ちには常識が通用しない面があるらしい。寿司をご馳走になっておきながら、相手が村岡という名であるのを、三郎は初めて知った。
「丁度よか相手がきんしゃった。畑中さん、三本ぐらいで打ってみらっしゃらんね」
 太った身体を振り向けながら、源吉が客を紹介した。
「三本ですか。よかですよ。打ちもそ」
 三本とは一局に三千円賭けるという意味である。
「こちらは五段じゃけん、二子でお願いしてみんしゃい」
 四十歳の半ばかと思われる肩のがっしりした男を見て、源吉が二本の指を立てた。
「よかですか。ではあちらで打ちましょうか」
 男がうなずくのを見て三郎は煙草を揉み消し、それを灰皿に捨てた。
 プロは初段でもある一定レベルの実力に達しているから、アマ五段に対しても四子ほど置かせて打つことができる。それほどの差があるのだ。だから、この相手には三郎が六子置かせて互角の勝負だ。それを二子で打つのだからいかようにでも料理できる。だが、三郎は相手をとことん痛めつけるような打ち方をしない。距離を計りながらじっくりと打ち進める。時にはよろめいているような芸当をして見せた。
 村岡と源吉が見守る中で中盤の難しい戦いも無難にこなし、終盤のヨセに入る。やがて微妙な形勢のまま終局した。
「あれっ、勝ち碁とばかり思っとったけんど、一目負けじゃなかね」「やれやれ、一目勝ちか」
 愕然とした男の顔を見上げて、三郎はホッとしたように溜め息をついた。
「丸山さん、よく健闘しとったけんどな。村岡さん、どうですばい」
「そうですな。この手でこっちだとジゴかな。畑さん、どうだったですかな」
 源吉の声に促されて、村岡が人差し指で盤上をさした。
「そうでしたね。いやあ危ないところでした」
「コミなしの置き碁じゃけん、同点のジゴでも白の勝ちは動かんたい。結局はどうなっても畑さんの勝ちじゃったね」
 にやにやしながら源吉が丸山のがっしりした肩をポンと叩いた。
「もう一局と言いたいところじゃけんど、時間がなかとたい」
 丸山は自分の腕時計と壁に掛けてある時計を見比べて、財布を取り出した。
「ん、もうこんな時間か。丸山さん、八時半たい。はよ帰らにゃいかんばい。ほらほら」
 からかうように村岡がふふっと笑った。
「安くしときますけん、後で飲みにきてくんしゃい」
 どうやら、丸山はバーのマスターのようだ。三郎に賭金を手渡すと、丸山はそそくさと部屋から出て行った。
「今度は源しゃんが打ちんしゃい」
 村岡が半命令的な口調で強要した。
「じゃ、今度のもやっぱい三本たい」 
 源吉は三郎の強さをなめてかかっているようだ。それを薄々と感じながら三郎は頭を下げた。
「では、お手やわらかにお願いしもす」
 源吉はアマ五段の中でも少し強いのかも知れない。白石を握って盤上に突き出した手つきが様似になっているからだ。三郎は黒石を一つ撮み上げて、盤上に置いた。これは奇数が当たれば、黒で打つと意思表示したのだ。源吉が握っていた白石を二コずつ並べていく。
最後に残った石数が二コの偶数ならハズレだから三郎の白というわけだ。力量が互角と見なされる者同士で打つ場合は互先といって、そうした握りによって黒白を決める。で、黒から打ち始めるわけだが、先行する分だけ黒が少し有利だ。だから、黒側はハンディとし
てのコミ四目半を出さなければならない。つまり、最終的に五目多ければ黒の半目勝ち。四目なら黒は半目負けとなる。握りの結果は二つ残り。源吉の黒番となった。
「よかよかと思っとったんじゃけんど、盤面四目か。コミを引いて俺の半負け。どうもおかしか。なんかこうキッネに騙されたごっあい」
 わずかばかりの頭髪を掻きむしりながら、源吉がぼやいた。脇で見ている村岡もううんと唸った。
「いやーきわどい勝負じゃったなあ。ほんのこて最後の土壇場まで判らんかったでごわす」
 盤面を睨んでいた顔を浮かして、三郎が頭を左右に振った。
 源吉の顔が赤くなっている。どこでしくじったのか判らないようだ。頭に血が上り、熱くなっているのかも知れない。
「もう一局打ってくんしゃい」
 声を荒げて、源吉が碁石を交換した。
 師匠のひとり娘、幸子を抱いてしまったのは三郎が二十歳の時だった。幸子は二十二歳で、親の決めた許婚がいた。
「さぶちゃん、どこでもいいから連れて行って」
 幸子が誘ったのは、師匠の初防衛戦である第七期囲碁大王戦五番勝負第一局目が広島で開始された直後であった。二日制で持ち時間は各八時間の長丁場である。若手棋士たちが打たれる手を控え室で検討するのは常だから、三郎もそのつもりでいた。けれど、このよ
うなタイトル戦の序盤は長考に長考を重ねて打たれるので着手が進まず、一日目の午前中は検討のしようがなかった。
 幸子の許婚は町田輝彦七段で、中山門下の三郎の兄弟子に当たる。その兄弟子は他の棋戦の予選を打たなければならず、今回は来ていない。
「昼までの三時間だけならいいよ。幸子さん、それでよかね」
 対局場は宮島の観光ホテルだ。周辺の海岸線が美しいのでタクシーを呼んでもらった。
 三郎は風光明媚な海景色をタクシーの車窓から眺めていた。隣に幸子がいると思うと心穏やかではない。何故か緊張する。
 幸子は景色など眼中にないようだ。運転席のシートを見つめたまま振り向こうともしない。何かを思いつめている感じである。
「輝彦さんとの事は、わたしがまだ子供だったし、よく解っていなかったのね。ああ、もう絶望的だわ」
 突如、幸子が言葉を句切りながらささやいた。運転手には聞き取れない程度の微かな低い声であった。そういえば、結式の日取りを決める話し合いが最近あったようである。
「ん・・・・」
 三郎は窓外から目を反らさず、固唾を呑んだ。変化に富んだ海岸線が現れては消えていく。神無月の陽射しに小波がきらきらと輝いている。磯を過ぎると、浜が見えた。
「幸子さん、ほらあそこ、あの浜辺をちょっと散歩していこうか」
 三郎は幸子の顔に視線を向けた。少しは気が晴れるのではと思った。が、いやいやというように幸子は黙って顔を振っただけだった。
「・・・・・・・。運転手さん、この近くに休める施設はないかしら」
「この先に大きな温泉ホテルがありますが」
「しかたがないな。じゃ、そこにやって」
 三郎は指示し、腕を組んだ。幸子は輝彦を嫌いになったのだろうか。いや、そうではあるまい。輝彦は町田九段の次男坊だ。長男は八段で、町田九段と中山九段は瀬越門下の同門である関係から、輝彦は中山九段に預けられた。集まった弟子たちは各自がライバル意
識を持って競い合うので、囲碁を研鑽させるには都合がいいからだ。また中山九段にしてみれば、碁才のある後継ぎが欲しかった、というに過ぎない。
「あっ・・・・・」
 幸子が思わず、悲鳴を発した。車がいきなり右方向に大きくカーブしたのである。反動で幸子の身体が倒れかかり、左座席いる三郎の身体と激しく触れた。咄嗟に、三郎は幸子の身体を受け止めた。驚いたことに、幸子の腕から肩の辺りはふっくらとしていて柔らか
だった。甘い香りが微かに鼻孔をくすぐった。
 幸子の許婚として輝彦が中山家に移り住んだのは、まだ二人が幼児期の頃である。してみれば、兄妹のように育ったとしても不思議ではない。三郎が入門したのは、それより九、十年後だった。輝彦の思いはいざ知らず、幸子にとってのそれは飯事遊び的な感覚であったろうことは容易に想像できる。幸子がその夢想から覚めるのに、どれほどの時を要したのだろう。
 輝彦は中肉中背で丸顔だが、三郎から見ても男として不満のない好青年である。だとしても、幸子は恋情を感じないのかも知れない。
 その温泉ホテルは海を見下ろす高台に建っていた。三郎はタクシーから降りると、トイレに直行した。部屋は幸子が取ったのだろう。用を足すと、三郎はロビーで煙草を吸った。一服した後、カウンターで部屋の番号を聞いた。三郎が部屋に入っていくと、いきなり幸子が抱きついてきた。
「だめだよ。そんなことをしては」
 三郎は幸子の腕を掴んで押し離そうとした。が、三郎の首に絡めた幸子の腕は容易に離れなかった。掴んだ手にどれほどの力を加えていいものか迷ったからだ。
「さぶちゃん、抱いて」
 幸子が腕に力を入れてきた。膨らみのある胸が三郎の胸を圧迫した。幸子の口元から微かにアルコールが臭った。たった十五分か二十分足らずの小間にブランデーでも飲んだのだろうか。
「幸子さんには町田七段がい、うう・・・・」
 幸子の勢いに押されて三郎が畳の上に尻餅をついた。幸子の身体が覆い被さってきた。
 三郎は腕に力を込めて、それを引きつけた。三郎が幸子に恋心を抱くようになったのは、いつ頃か定かでない。同じ屋根の下で暮らし始めた頃は、確かに姉のような印象の方が強かった。いつの間にかそれが、ふたつ先に熟していく果汁のような存在に変わった。けれども、三郎は師匠や兄弟子のことを考慮してそれらしい振る舞いを慎んできた。だが今、その情熱が脳裏をかすめて、三郎の身体から力がすっとぬけていった。幸子が唇を寄せてきた。三郎は口づけして、幸子のまろやかな唇を吸った。
 昇段するには大手合で一定の勝率を上げなければならない。三郎は残り五局の内で、一局だけ勝てば、その勝率を確定できる。一局目は勇み足で負けてしまったが、二局目で後の三局を残して昇段を決めた。それは先週打ったので、まだ四段の免状は発行されていな
いが、そろそろ独立してもやっていけるだろう。三郎が禁断の恋情を破棄して幸子と肉体の契りを交わしてしまった心底には、無意識にせよそうした驕りが多少なりともあったのかも知れない。
「もうよか。この碁はおいらの負けたい」
 源吉が投了した。熱くなった源吉が無理手を連発した為に、中盤戦の途中で白の大石がトン死したのだ。作れば大差の負けだ。
「源しゃん、やっぱ無理は無理たい。こんな手を打てば、誰が打っても負けるに決まっとろうもん」
 村岡がひよいと右手で盤面を指さした。
「無理を承知でつい打った。負けたこの俺オオバカもんたい」
 浪花節調で唄いながら、源吉が泣き笑いのような顔をした。
 三郎は源吉から六千円を受け取った。丸山からの三千円を合わせると、今日の稼ぎは九千円になる。本職の四段だった三郎にとって、これは賭け碁の報酬というより、指導碁の謝礼みたいなものだ。
「畑さん、ちょっと待っててくんしゃい。・・・・皆さん、今日はもうこれで終わりたい」
 八人ばかり居残って、碁を打っている客たちの方に向かって源吉が声を張り上げた。
「あん、すぐに打ち終わるけん、源しゃん待っててちょうだいね」
 常連らしい一人の客が演歌でも唱うような声で応じた。
「まあ仕方なかけんど、ザル碁はなんぼ打っても強くならんばい。いつも言うとろうが、懸賞を打ちんしゃい。懸賞を」
 源吉がにやにやしながら客をからかった。途端に、客の間から笑い声が漏れた。二十分程度で客たちは帰って行った。壁に掛かった時計の針は午前零時を少し回っている。
「いつものように、これから一杯やろうじゃなかね」 
 村岡が誘った。碁会所が終わってから村岡と源吉が飲みに行くのは、そう珍しい事ではないのだろう。村岡を先頭に三郎たちは揃って碁会所を出た。人通りこそ少ないが、さすがに繁華街だ。外灯に照らし出された明るい路地を九メートルほど歩いた。
「うっひっひーこりゃ失礼」
 先に行く村岡の左脇をするっと抜いて、源吉がバー麦の扉を引いた。
「まったくあのブタめ、これじゃけんかなわん」
 村岡が右手の小指を立てて、にやりとした。源吉はズボンの垂れを引き上げると、太鼓腹に片手を押し当てたまま中に駆け込んでいく。村岡に続いて三郎も中に入った。
「ああら、いらっしゃいませ」
 微笑を浮かべた厚化粧の年増美人が源吉の手をとって、奥のボックス席に案内した。
「きょおぉぉもーきましーいぃたーきょおぉぉもきぃたーこのバーぁぁ麦ぇー飲みぃに来たーうぅぅんとぉサービスぅしてくぅれぇぇとーもしやぁもしやにーもしやぁーもしやにー惹かぁーさぁぁれぇぇてー」
 肉づきのよさそうな年増美人の肩を片手で抱いて着席した源吉は、空いた右手に格好をつけて唱い出した。太った腹の底から絞り出すようにして唱うので、なかなかの美声だ。
「畑さんは何を飲む」
 テーブルを挟んで腰かけた三郎に村岡が訊いた。
「まずビールをもらいもそ」
 一人いた先客がホステスたちに送られて帰っていく。戻ってきた若いホステスが三郎の横に腰をおろした。もう店を閉じたのか扉の方は明かりが消されている。
「わたしヒロミ、よろしくね」
 笑うと笑窪ができるぽちゃりとした顔のヒロミが三郎のコップにビールを注いだ。
「いつ触ってもよかお尻たいね」
「源しゃんはエッチじゃけん、ひとつん好かん」
 源吉の手を軽く叩いて、年増美人がまんざらでもなさそうな顔をした。
「源しゃん、うちの娘をいじめんといてくんしゃい」
 カウンターの中からやってきた丸山がヒロミの横に腰をおろした。押されて、ヒロミの身体が三郎の身体と密着した。
「それにしても畑さんは弱そうで強か。まったく不思議な碁たい」
 目を細めて、村岡がつまみを取った。村岡は自分が打ったのを含め、三郎が打つのを観戦して、ただならぬものを感じたのだろう。
「いや、たいした事はなかとです。あれはただ運がよかっただけなんです」
 ヒロミの肌の温もりを感じながら、三郎はビールを飲んだ。そういえば、ヒロミはなんとなく幸子の面影に似ているような気がする。そう思った一瞬あの時の情景が三郎の脳裏をかすめた。あれから八年が経ってはいるが、今でも幸子の幻影は鮮明に憶えている。片思いの幼い恋が実を結んだからか、あるいはあの日のそれがあまりにも強烈な印象として残った為なのかは不明だが、三郎は何気なく異性を遠ざけてきた節があった。
「ん、そうたいね。まあーおいらと似たようなもんたい。昌子しゃん、ビール注いで」
「はぁーい、ああら空っぽだわ」
 源吉が昌子と呼んだ年増美人が立ち上がった。目鼻立ちの美しい昌子は源吉ほどではないが、少し太り気味の体型である。着物の裾に手を当てて、カウンターの方に歩いて行く。
 ビールを持ってくると、再び源吉の横に腰をおろした。
「源しゃん、畑さんを甘くみていると、怪我をするばい。伸枝、おれにもビールたい」
 小柄な村岡がコップを取った。伸枝は面長な顔立ちの美人だ。ほっそりしたタイプだが、昌子より一つ二つ年上かも知れない。
「畑さんはまだ独り者じゃろうな」
 丸山が三郎の前に置いてある空ビンを取ろうとして、ヒロミの背中を押した。弾みで、ヒロミの胸がぐっと三郎の左腕に食い込んできた。ヒロミは二十四、五だろうか。淡い白地のブラウスを着てロングスカートという外観からは痩せて見えるが、その胸は意外に大
きくて弾みのある感触をしていた。幸子もこんな感じの胸だった。
「ええ、その通りでございもす」
 三郎の返事に、ヒロミがハッとしたように身を引いた。恥じらうような仕草でビールを注いで、ヒロミは三郎の顔をまじまじと見つめた。
「あっ、あのう鹿児島弁ていい響きね。なんだか男らしくっていい感じ」
 ヒロミが独り言のようにつぶやいた。丸山が聞き咎めて、それをからかった。
「あはっ、畑さんを誘惑しようなんてヒロミしゃんいけん、いけん、いけんばい」
「うっ、マスターの意地悪。誘惑だなんて・・・でも本気で誘惑しちゃおうかな」
「ところで畑さん、どうです。明日というても、もう今日じゃけんど、また賭けて打ちませんか」
「よかですよ、丸山さん打ちもそ」
「じゃけんど、今度の賭けは畑さんが五つで、こちらはヒロミを一晩。畑さんが勝てば、焼いて食うても煮て食うてもよかですばい」
 本気なのか、丸山がとんでもない事をふっかけてきた。一本は千円単位だが、一つは一万円単位である。つまり、五つ賭けるというのは一局に五万円なのだ。
「キャーアーいやなマスター。村岡さん助けて」
 ヒロミが目を丸めて悲鳴をあげた。源吉が恵美酒顔になって、ふふっと笑った。
「いやー面白くなってきた。ヒロミしゃん、覚悟しんしゃい」
 左手は伸枝の肩に廻したまま右手でポンと自分の膝を叩いて、村岡がニヤリとした。
「この源しゃんが審判たい。いやー愉快ゆかい」
「あっ、あのうすいません。今三つほどしかなかとです」
 三郎は右手を振った。ふと、幸子の幻影がヒロミと重なって見えた。だから、ヒロミに魅力を感じないわけではないが、これはいかにも悪質なお遊びである。ただ金を賭けるだけというのであれば、三郎はいくらでも工面するつもりだ。またその手蔓がないというわ
けでもなかった。
「これ丸山しゃん、この賭け俺が乗ろうじゃなかね。そのかわり、もし畑さんが勝った場合この伸枝しゃんを一晩かすのが条件たい」
 四十六、七歳ぐらいだろうか。これまた着物を着た伸枝の肩に廻した左手で、その肩をポンポンと軽く叩いて村岡が顎をしゃくった。「そういう事であれば、この源しゃんもこれを賭けて乗ろうたい」
 丸みおびた昌子の腰の辺りを撫でてやりながら、源吉が右手で己の膝をポンと打った。
「それはよか。よし、やろうじゃなかね。じゃけんど、うちは娘三人じゃけん、さっきの三倍の賭けになるばい」
 がっしりした肩を怒らせて丸山が腕を組んだ。
「源しゃんには前ん時に稼がせてもろうたけん、今回の賭け金は俺に全部まかせてもらおうじゃなかね」
 どうやら、このように不謹慎ともいえる指向での賭け碁は以前にも行われていたらしい。
「村岡さん、おいは負けても責任はもちませんよ」
「よかよか、畑さんは何も心配せんでもよかばい」
「おお、社長が出してくれるんじゃな。それは大助かりたい。ところで畑さん、ねぐらはあると。うちでよかったら泊まっていきんしゃい」
 源吉が三郎の顔に目を向けた。五人いたホステスのうち、二人は先程帰ったようだ。
「それじゃ遠慮なくそうさせてもらいもす」
 三郎は即答して立ち上がった。ヒロミも立った。丸山を残して、バー麦を出た。
「じゃ、みんな気をつけて帰りんしゃいね」
 路地で村岡が手を振った。源吉と三郎は碁会所に向かって歩いた。
「畑さんはここで寝てくんしゃい」              
 碁会所の奥に狭い炊事場がある。その横の三畳間を源吉が指さした。同じ建物内だが、源吉の住まいは別になっているらしい。
 中山秀雄囲碁大王と挑戦者杉田芳延九段の挑戦手合第一局は、二日目の午後九時過ぎに決着する大接戦だった。囲碁大王戦は地方新聞数社と棋院が共催する合同棋戦である。優勝賞金は八百万円で、五番勝負だから先に三勝した方がそれを手中にする。勝てば賞金は
無論だが、第七期囲碁大王というタイトルを保持する権利と栄誉を与えられるのだから、両者は真剣にならざるを得ないわけだ。まして一対一の争碁である。まさに棋士としての真価が問われているといっても過言ではないのだ。互いに気合いも炸裂することだろうし、
いかなるプレッシャーがかかるものか。挑戦手合いは各地を転々としながら二週間おきに打たれるが、勝負は自分自身との戦いでもあるといえるだろう。
 幸子を伴って三郎が対局場の観光ホテルに戻ってきたのは、夕刻に近い時間だった。すぐに三郎は若手棋士たちとの検討に参加した。幸い検討の行われる控え室は出入りが激しく、三郎の動向に気をかける者は誰もいない。三郎は平然さを装ってはいたが、検討は上の空だった。数時間前の幸子の目が生々しくスローモーションのようにちらちらと浮かんでは消えて、どうにもならないのだ。反面には師匠をはじめ、町田九段や兄弟子を裏切ってしまった、という後悔の念が渦巻いていたからに他ならない。
 第一局は難局を制して師匠が勝ち名乗りを挙げた。終盤戦は互いに一分の秒読みとなる緊迫した試合運びだった。東京に戻った四日後、三郎は師匠に呼ばれた。夜になって帰宅した師匠は自室にいたが、着替える間もなく呼んだのだろう。和服姿できちんと正座をし
て待っていた。
「君の四段免状を預かってきた。おめでとう。ほらこれだ」
 師匠が桐の箱から取り出した免状を掲げて、それを差し出した。三郎は黙って免状を受け取った。
「これからも益々励むように」
 師匠が袖口に両手を差し込んで目をなごませた。師匠はタイトル防衛戦を争っている最中だから、体調はもちろん万全の構えで臨んでいるはずである。おそらく精神面でもそうだろう。
「ん、そうだった。一日目の昼食の時、幸子と君はいなかったようだね」
 ふと思いついたように師匠は目を宙に浮かせた。三郎はドキッとした。
「あっ、あのう、そ、それは・・・」
 三郎は言葉に詰まった。ちくちくと罪悪感が胸を締めつけるように襲ってきた。三郎は困惑した。時期が時期だけに今ここで告白していいものだろうか。事は重大だ。師匠のタイトル戦にも悪影響を及ぼすかも知れないのだ。そうでなくても師匠は普段より神経質に
なっているはずである。三郎の心は二重に痛んだ。しかし、あれは黙って押し通すわけにはいかない。いずれ幸子の口から伝わるかも知れない。三郎は覚悟を決めた。
「先生、申し訳ありません。幸子さんと温泉ホテルにいました。本当に申し訳ないことをしてしまい、すいませんでした」
 三郎は土下座して畳に頭を擦りつけた。言葉の意味が通じなかったように師匠は一瞬ポカンとしたが、やおらに聞き質した。
「それはどういうことかね」
「そ、それはそのう・・・幸子さんとは絶対・・してはならないことを。本当に申し訳ございません」
 三郎は冷や汗をかいた。もう平謝りに謝るほかに術がなかった。
「な、なにっ、幸子と寝た、とでもいうのか」
 師匠の声が高ぶって震えた。三郎は畳に額を押しつけたままでいた。
「す、すいません」
「この大事な時になんてことをしでかしてくれたんだ。ばかもん」
 師匠は怒りにまかせて拳を振り上げたが、うっと我に返ったようにその拳を引き込めた。
「す・・・・」
 三郎はもう謝る言葉さえ出なかった。師匠は暫し目尻を吊り上げてはいたが、少しは気を静めたのか天井に目を留めた。
「このままじゃ町田さんや輝彦君に申し開きできない。幸子は病気療養という事にして田舎の親戚に預けるにしても、君は門下を破門する」 
 重苦しい沈黙を破って、師匠は自身を納得させるかのように頭を振った。とはいっても師匠は師匠だった。その夜のうちにアパートを探して借りる手筈を整えてくれたのである。
 翌日の午後、三郎はアパートに移った。部屋住みの身では大した荷物もなかったので、引っ越すのは簡単だった。幸子は朝早く母親と田舎に旅立ったようだ。幸子の意志がどうであれ否応なしに連れて行かれたのであろうことは容易に想像できた。
 三郎はアパートから棋院に通った。手合いのある日だけ顔を出す程度だったが、数日も経たずして噂が広がったのである。三郎が破門になり、病気療養という大儀名文があったにせよ幸子がその姿をくらましたのが重なったのだから当然の結果ともいえた。当初は三
郎も耐えてはいたが、とうとう対局にも支障をきたすほどになった。おまけに、ある事ない事が面白可笑しくどんどん拡大して伝わるので始末が悪かった。
 そうした状況が第七期囲碁大王戦に影響したのかどうかは知らないが、師匠は挑戦手合第二局を負けた。対戦成績は一勝一敗の五分となったわけだが、五番勝負であるから今度の第三局が最大の山場となるはずだ。その局に負けた方は絶対絶命の節に立たされるので
第四局にかかるプレッシャーは絶大である。
 第二局の結果を知った三郎は、その日のうちに手紙を書いた。
【先生、ご迷惑をおかけした事を深くお詫びします。もう二度と棋院には復帰しない覚悟です。勝手ながら無断で棋界から脱退するのをお許し下さい。長い間お世話になり、誠に有難う御座いました。このご恩は一生忘れません】
 高校に進学せず、囲碁一筋の道を進んできた三郎には、それが精一杯の文面となったのだった。
 
著者  さこ ゆういち       
小説 プロくずれ   
 第1章破門