【 三郎はガチャガチャと牌を掻き回す音でなかなか寝つけなかった。どうやら、
隣室は雀荘になっているらしい。うとうとしては何回も寝返りをうった。茫洋とし
た夢の中で、煩悩のままにゆれる幸子の姿をおほろげに見た気もするが、はっ
きりしない。ぐっすり眠れたのは夜が明けてからだった。
 三郎は昼前に目が覚めた。三畳間の片隅にある押入に布団を放り込んで、
三郎は流しで歯を磨き、顔を洗った。階下に降りると、同じ建物のすぐそこに
喫茶店があった。
 たぶん雀荘もこの喫茶店も源吉が貸しているのだろう。三郎はそこで食事を
すませると、裏路地から表通りに回り込んだ。やはり同じ建物のこちら側が玄
関なのか、川原源吉の表札が掛かっていた。下半分は婦人服の店舗になって
いる。木造二階建てといっても、この建物は真新しくかなり大きいようである。
 三郎が碁会所に戻ると、三面の碁盤が置かれた四つの台の奥まった所で、
向かい合って椅子に腰かけた村岡と源吉が、談笑をしていた。丸山は、源吉と
碁盤一つ右横の席に腰かけてむっりとしている。
「やあ、畑さん。ここ、ここ」
 笑みをたたえた顔をふり向けて、村岡が手招きした。
「昨夜はどうも」
 三郎は近づいて頭をさげた。上着のポケットからハイライトを取り出すと、
丸山の向かい側の椅子に腰をおろし、一本の煙草をぬき取って火を点けた。
「さてさて、ぼちぼち約束の懸賞を打ってもらおうたい。この源しゃんが審判
じゃけん、勝負は公平ばい。丸山さん、インチキはなしじゃけん存分に打ちん
しゃい。畑さんには村岡さんがついとるけんね。まったく社長も好きもんたいな」
 源吉がわずかばかりの頭髪を撫でつけて、にやっとした。
「これこれ源しゃん、なんばいうとるんか。ほら、これが約束の賭金たい」
 村岡は背広の内ポケットから封筒を取り出して、それを源吉に手渡した。
「丸山さん、ほれ確かに十五万入っとるばい。そっちの方は大丈夫じゃろうね」
 源吉が太い指先で封筒から札束をちょこんと出して見せた。
「うむ、武士に二言はあろうはずがなか。後でヒロミしゃんが代表して立ち会う
手筈になっとるけん、こっちの心配はいらんばい」
 丸山は頭髪を短く角刈りにしているので、凄むとヤクザのような顔になる。
その丸山がむっりした顔をほころばせた。
 三郎はまともに打つかどうか迷っていた。本気で打つと素性がバレてしまう
だろう。しかし、この三人ならバレても返って何らかの進展があるような気が
する。賭碁をしても、彼等は賭碁師というわけではない。
「では、そろそろ打ち始めてくんしゃい」
 審判気どりの源吉が太鼓腹に両手を当てて対局開始の宣言をした。丸山が
ごつい指で黒石をつまんで、当然といったふうに二子のハンディを置いた。
「ちょ、ちょっと待って下さい。訳は勝負がついてから話しますが、丸山さん、
失礼じゃっどん今日は六子で打ちもそ」
 本気で打つと決めた三郎が右手をあげて、待ったをかけた。途端に丸山は
血相を変えた。
「な、なんでばい。二子の碁を六子も置けじゃと。三子というなら有難かけ
んど、あんさん負ける気ぃか」
 丸山にもそれなりのプライドがあるのだろう。黄色ばんだ声で丸山が語気
を強めた。
「いやっ、負けるつもりは毛頭なかとです」
 丸山の眼を真っ直ぐに見つめながら自信たっぷりに三郎は、ずばっといって
のけた。 
「う、ううっ・・・・」
 丸山が言葉に詰まった。みるみるうちに額の血管が膨れあがり、赤い鬼瓦の
ような顔になった。見るに見かねたのか、呆れ顔で村岡が話しに割り込んできた。
「畑さん、それはいくらなんでも無茶というもんばい」
「ううん、なんというたらいいか。まあー勝負はやってみらんと分からん、という
ことです」 
「ううむ・・・、なにか勝算があっての事じゃろう。畑さんがそこまでいうなら、
もうなにもいわんばい。これ丸山さん、勝つチャンスが大きいのじゃけん、腹を
立てんと六子で打ってみんしゃい」
「身体はこぢんまりしとるけんど、村岡さんは太っ腹じゃけんね。丸山さん、
まったく社長のいう通りたい。これは儲けもんじゃなかね」
 村岡の言葉を後押しするかのように源吉が断を下した。しぶしぶと丸山が
六子置いた。
「よし、こうなれば容赦せんばい」
「ご存分にどうぞ」
 一礼した三郎は右手をしならせて、第一着を三連星側の右上隅星に小ゲイマ
ガカリした。この手は最初から黒の勢力園内に突入したようなもので、原則論
的には無茶苦茶な打ち方といえる。
 が、丸山の受け手に対して、三郎は次々に打ち込んでいった。白は一見バ
ラバラな石だけだが、黒もあっちこっちの石を寸断されているので難解な局
面になりつつあった。ただし、打たれた石は全て二対一の関係にあるから、
どこもここも白石より黒石の方が強い。
「おっ、おおっ、これはこれは美人が来んしゃった、来んしゃった。ううん、
いつ見てもヒロミしゃんはよかおなごたいね」
 さらに数手打ち進んだ時、ヒロミが姿を見せた。その身体を舐め回すように
見て、源吉が目を細めた。
「うふっ、まあっ、源しゃんはいやらしか」
 ふふっと笑いながらヒロミが三郎の横の席に腰を下ろした。今日のヒロミは
白いレース模様の胸をV字形に開けたフォーマルウェアを身に付けている。
首筋から胸元にかけての清爽な肌の匂いが三郎の鼻腔を刺激した。
「ん・・・」
 瞬間的にある発想が三郎の脳裏をよぎった。三郎は黒石に飛びツケを放っ
た。丸山は当然のごとく押さえたが、間をおかず三郎はスパッとキリチガエを
打った。
「うわっ、これは参ったかな・・・・。いや、な、なんと無茶な・・・」
 一瞬丸山の眼が光った。切った白石が取れるのだから、内心ほくそ笑んだ
に違いない。が、それとは裏腹なぼやきだったのだろう。
「あん・・・・」
「ありゃ・・・なん」
 ほぼ同時に村岡と源吉が思わず声を発して、ポカンと口を開けたままにな
った。三郎は捨て石戦法に出たのだが、誰も気づかなかったようだ。案の定、
黒石の強さを頼りに丸山は白石をアテて取りにきた。本筋は取りにいくといけ
ないのだが、打つ前にカーッとさせた心理作戦と連動したのか、丸山は仕掛
けた罠にまんまと陥ったようである。
 三郎は逃げた石の分だけ取られるのを承知の上で連続九手打った。外側の
黒石との攻め合いは白の一手負けだが、絞り上げて強固な壁を築いた。おま
けに打ちきっていないので絶対のコウ立てが二回ある。
「ううん、なるほど」
「ほほう、うむ、十八目の黒地か。しかし、白厚し」
 感心した源吉に続いて、村岡がうなずいた。三郎はヒロミの顔をちらっと
横目で捉えた。ヒロミは涼しげな目元と整った鼻筋が好ましさを醸し出して
いる。まして盤上を一心に見守る横顔は美しく、三郎を魅了して放さなかった。
「ふ、ふう」 
 短く溜め息をついた三郎は白石をつまみ上げると、黒石に襲いかかった。
厚みをバックにした攻撃だから小さく捨てれば良かったものを、丸山はまと
もに受けて立った。手数が進んで、爆弾のような白石が炸裂した。
「ありゃ、こりゃいかん」
 丸山の角張った顔が歪んだ。部分的に黒の大石がトン死したのだ。丸山
が冷静なら、全局的にはまだ置き石の余力が残っているから挽回の余地が
あろうというものである。
「えいっ」 
 聞き取れない気合いと共に、三郎は隣接した黒模様の弱点を衝いた。
丸山がギクッとして動揺した様子を見せた。ヒロミは碁を解するはずがない。
けれども、三郎の全身から発散する気迫は感じるのだろう。ヒロミが目を輝
かせて三郎の顔に視線を当ててきた。
「く、くそっ」
 丸山はここでも強気な手を打った。やり損なったショックが尾を引いてい
るのだろう。前の損を取り返そうとでもするかのような打ち方だった。こうな
れば、もう丸山に勝ち目はない。それは次々に連鎖反応を起こし、とうとう
全体の黒石が壊滅した。
「ああ負けた。ま、参ったばい。な、何か昨日と勝手が違うばい」
 いかにも悔しげに丸山が石を投じた。すかさず、源吉が感銘の声をあげた。
「おおーっ、黒は玉砕につぐ玉砕。な、なんというこの白の打ちっぷり」
「いやー実にお見事という他なか。は、畑さん。あんた、ただ者じゃなかね」
「ううん、こんお人は強かも強か。社長のいうとるごっ、ただの碁打ちじゃ
なか」
「源しゃん、それはどういう事なの」
 ヒロミは軽く小首をかしげると、あらためて三郎の顔を見つめて不思議そう
な顔をした。
「ヒロミしゃん、どうも畑さんは素人の碁打ちじゃなかごたるばい」
「畑さん、あんた本職じゃなかと」
 源吉と顔を見合わせて、村岡が目を輝かせた。
「村岡さん、今は違うとです」
「今はというと、元はどげんじゃったと」
「実は四段までいったとです」
「と、いうこっはプロ棋士の四段じゃったとじゃな。どういう事情がありな
さったかは知らんけんど、畑さん、気に入ったばい。ううん、これは面白い
事になってきよったな」
 村岡が楽しげにふふっと笑って膝を乗り出した。
「そげんこっなら、こん勝負は無効たい」
 怪訝そうに成り行きを見守っていた丸山が顔を凄ませて肩を怒らせた。
「ああ、それはそれでよかですよ」
 三郎は即答した。勝ってもどうせ金にはならないし、一時は負けてやろう
かとも思ったが、そうすると金を出させる村岡に義理ができるので止めたま
でのことだ。
「丸山さん、なんばいうとるとね。賭けは賭けばい」
「そうたい、そうたい。源しゃんのいう通りたい。じゃけん約束は守っても
らうばい」
「うわー、わたし困っちゃうな」
「ううん、ヒロミしゃん堪忍。覚悟してくんしゃい」
 源吉と村岡に睨みつけられた丸山が肩をおとしてヒロミに手を合わせた。
「よし、そうと決まれば今夜は娘三人わしらが預かるばい。源しゃんは
独り身じゃし、畑さんもじゃけん都合はよかじゃろ。まあヒロミしゃん、
悪いようにはせんけんね。こん十五万で今夜は派手にやろうじゃなかね」
 最初から村岡はそのつもりでいたのだろう。
「社長、そうこなくちゃいけんばい。それじゃ、いつもん所じゃね。連絡
するばい」
 源吉がにこっとなって立ち上がった。太った身体を揺さぶって電話の方
に歩いて行った。
「畑さんは何も心配せんでんよか。ヒロミしゃん、先に行って待っとるけ
んね」
 村岡が釈然としない顔立ちの三郎に声をかけて、ヒロミの方を振り向
いた。
「じゃあまた後でね」
 ヒロミが微笑を浮かべて席を立つと、三郎に手を振った。丸山と一端
帰るらしい。
 入れ替わりに常連客がぼつぼつと集まってきた。各々気心の知れた
相手と打っている。
「今日の源しゃんは無礼講じゃけん、あんたら勝手に打ちんしゃいね」
「仏の源しゃんがああいうとらっしゃる。きっと命の洗濯でもしてこらっ
しゃる気ぃたい。・・・・・あらっ、間違えちゃったばい」
「よけいなこっをいうとるからばい。あっはっはーヘボはヘボなりに
真面目に打ちんしゃい」
 碁を打ちながらいい返した客を源吉がからかった。その背後から村岡が
声をかけた。
「源しゃん、冗談いうとらんと、そろそろ行こうたい。畑さん、行こうばい」
 三郎は村岡について行った。ぶらぶらと源吉が後を追ってきた。歩いて
十五分ほどの所にある旅館に入った。案内された部屋は応接間と六畳間の
二間続きだった。すでに六畳間の中央に盤石が置かれ、酒肴まで用意さ
れている。
「まだ二時半を回ったばかりじゃけん、一局打ってくれんじゃろか」
「よかですよ」
 村岡が上座を譲ったので、三郎は床の間を背にして座った。源吉が
容器の栓を捻ってウイスキーをコップに注いだ。
「これは懸賞じゃなく、指導碁として打ってくんしゃい」
「まあーほら、ふたりとも一杯やりながら打ちんしゃい」
 源吉が水割りを作って、コップを差し出した。三郎は受け取って乾杯した。
「ところで畑さん、実際のところ何子ぐらい置けばよかじゃろか」
 水割りを一口飲んだコップを置いて、村岡は黒石の入った器を引き寄せた。
「ええっと、四子で丁度よか勝負でごわそ」
「ううん、四子でよか勝負か」
 村岡は唸りながらも率直に四子のハンディを置いた。三郎は手をゆるめず
に打っていく。
 今、三郎は意識して鹿児島弁を使った。内弟子だった頃は棋士仲間に
からかわれるので、しゃべらなかった。初段を突破してプロになってからは
故郷に帰ろうと思えば何時でもできたのだが、あの頃はその気にならなかっ
た。こうして破門になった身ではもう帰ろうにも徳蔵が許さないだろうから
十七年もの間、里帰りしていない。そこに哀愁を抱くようになったからなのか、
あるいは幸子の面影とその慕情を忘れようと努めてきた苦悩からなのか、と
にかく三郎は方言に対する愛着心が強くなってきた。それは賭碁師として地
方巡りをしているうちに自然と身についたものといえるだろう。
 三郎も村岡も水割りを飲みながら打っている。脇で見ている源吉のピッチ
が早い。源吉は禿げあがった額まで茹で蛸のようになっているが、盤上を
見つめる眼は輝きを失ってはいない。小刻みに頭を動かして、両手の指を
折っているところを見ると目算しているのかも知れない。
「あれれれ、早くも碁にされたばい」
 打つ手を止めて村岡が唸り声をあげた。三郎の下手ごなしの攪乱戦法に
迷わされて中盤戦に入ったばかりなのに互角の形勢にもつれ込んだのだ。
さらに着手が進んでいく。白の大優勢になってきた。差はどんどん広がるば
かりである。
「もういけんばい。社長、大差じゃなかね。投げんしゃい、投げんしゃい」
「しゃくに触るけんど、源しゃんもういけんか。畑さんはやっぱり元プロじゃ
ね。こんなに強かとは夢にも思わんかったばい。ところで、こん碁はどのく
らい差があるとじゃろ」
「そうですね。最終的には二十目を少し越えるでしょうかね」
「どこ辺りが悪かったとじゃろか」
「ほら、ここ、ここっ。ここをこう打つべきでしたね。そうするとこうなります
からね」
 左下隅を指さすと、三郎は正しい手順を並べ返して見せた。それは黒よし
となる図だった。
「ほほう、なるほど。そんな手があったのか。ではこちらがその手を打った
としたら、どうするつもりだったとたいね」
「そこはしばらく放置ですね。ええっと、こっちの方から戦端を開くつもり
だったとです」
「ううん、そうか。まともに打って悪くなるなら手抜きか。そうやって味残し
にしたまま時機をうかがうわけか。で、そっちの方から戦端を開くと、そこ
の味がどう作用するんじゃろうかな」
 村岡の問いに、三郎は予想されるヨミの手順を並べて披露した。それで
味残しにした所の白石が輝きを増して復活した。いや、それは復活どころで
はなく、破壊力を秘めた石に化したといっていい。むろん途中で変化する
ヨミもあるが、いずれの筋を辿ったにしても白よしの図としかならない。
不意に三郎が白石をサッと指した。
「まあーその石は忍者みたいなものなんですね。だから、この忍者を活か
す為には陽動作戦あるのみといえるでしょうか」
「ふむふむ、なーるほど。そういうことじゃったか。そんなふうに並べて
見せると解るけんど、打ってる時はそんな陽動作戦なんど考えもせんばい」
「いやいや、実に見事なもんたいね。社長、交替するばい。どっこらしょ」
 源吉が太った身体を持ち上げるようにして立ち上がった。やおらに村岡も
立ち上がり、座を源吉に譲った。源吉も四目のハンディを置いた。
「畑さん、今度、親乗り賭碁を打ってくれんじゃろか。俺と賭けるのは建設
会社の社長じゃけんど。打つ気があれば話しをつけるばい」
 数手打ったところで村岡が訊いた。村岡はちびりと水割りを飲んでコップを
置いた。
「はあーそれは願ってもない事です。で、それはどれぐらいの割合なん
ですか」
「親が六、子が四じゃけんど。それでどうじゃろか」
「そ、そうですか。それでよかですよ。あっ、その賭け金はいくらほどに
なるんです」
 三郎は喜んで話しに乗った。これは親同士が賭ける博打であって、打つ
者は負けても金を出さなくていいし、勝てば賭け金の四割を頂戴できる。
まさに賭碁師冥利に尽きるという話しなのだ。と、いっても負けるわけに
いかないのは当然である。
「まあー二百万ほどの賭け金になるじゃろか」
 源吉との指導碁も着手が進んだ。源吉は水割りを盛んに飲みながら打って
くる。三郎もゆっくりしたペースで水割りを飲んだ。
「あん、こりゃもういかん。畑さんはやっぱり強かね。よし、今度は社長と
打とう」
 源吉が盤上に黒石をぶちまけて投了した。さすがの源吉も少しは酔った
ようだ。三郎は村岡に座を譲ると、コップを持ったまま応接間の方に移り、
ソファーに身をしずめた。
 村岡と源吉が打ち始めているが、酔いの為に思考力がにぶってきている
のだろう。打ち合うテンポがやたらに速い。
「うひっ、やったでベィビー。オイオトシ」
「げっ、そ、それ待って」
「だめだめ待ったはなしばい。・・・・ところで源しゃん、畑さんを当分
泊めてやってくれんじゃろか」
「うん、どうせ空いてるんじゃけん、社長よかばい。ううん、今度は負け
んばい」
 村岡と源吉がまた打ち始めた。ポンポコ、ポンポコ打っている。ふと、
三郎が顔を反らすと、伸枝の和服姿が目に飛び込んできた。同じように
昌子、ヒロミと続く。
「お待たせしました」
 伸枝がきちんと膝をついて頭を下げた。昌子とヒロミも同様の仕草をして
見せた。 
「おう、待っちょったばい。おおっ、もうこんな時間か。伸枝っ料理をはこ
んでもらえ」
 ちらっと腕時計を見て顔をあげた村岡が伸枝に目配せをした。伸枝が立ち
あがって、ふり向いた時にハラリと裾がひらめいた。伸枝と呼びすてにした
ところをみると、彼女は村岡の愛人なのかも知れない。
「よよっ、昌子しゃんがきんしゃった、きんしゃった。ささっ、ここに、ここに」
 いかにも嬉しげにニッコリした源吉が右手で畳を叩いて、コップを取った。
昌子は源吉の横に寄っていくと、裾をたたむようにしてそこに座った。ソファに
腰かけた三郎の横にはボトルとコッブを手にしたヒロミが寄ってきた。ヒロミは
腰かけると、上体を傾けて三郎のコップを取った。V字形に開けた胸元の
ふっくらとした白い肌が三郎の目に飛び込んできた。一瞬、三郎は目のやり
場に戸惑って思わず村岡の方を振り向いた。受話器を置いた伸枝が岡村の
側に座った。
「ではまず乾杯といこうじゃなかね。源しゃん音頭をとってくれ」
 村岡の言葉に頷いて、よっこらしょと立ち上がった源吉が声を張り上げた。
「ええっと今夜は畑さんとヒロミしゃんの健闘を祈って、乾杯」
 ウスッ、クスッと笑い声が漏れたが、一斉にコップを掲げて水割りをひと口
飲んだ。
「そいじゃ料理が揃うまでひと風呂浴びようじゃなかね」
「そうね。せっかくだから私たちも汗を流してきましょうか」
 村岡と伸枝のかけ声で、ぞろぞろと風呂場に向かった。男たちは男風呂の
暖簾を交い潜った。女風呂もそうだろうが、男風呂の浴槽は二つあった。
三郎が湯に浸かった後、髪を洗っていると、源吉が隣にきて禿頭を洗いながら
話しかけてきた。
「畑さん、これの事じゃけんど」
 源吉が右手の小指を立てて、笑い顔を少しゆがめた。
「ああ、あの賭けの事なら別に気にしてはいませんよ」
「いや、あの賭けは賭けたい。じゃけん、ヒロミしゃんをどうしようがそれは
畑さんの自由にすればよかたい。そうじゃなく俺の事なんじゃけんど」
 源吉が頭から湯をかぶった。顔を赤らめているが、それは湯のためばかり
ではなさそうだった。ちょっと言い淀んだので、三郎はさり気なく声をかけた。
「じゃ何の事なんですか」
「実は俺にも畑さんと同じ年頃の息子が一人いるんじゃけんど、関西に出た
きり全く帰ってこんとたい。あの親不孝者め。まあーそんな事はどうでんよか
とじゃけんど、長いこっ一人暮らしじゃったけん、あのうそのう」
 またしても源吉が言いにくそうな顔をした。三郎は頭に湯をかぶり、顔を
ふった。
「やもめ暮らしは寂しかけんね。前々から昌子を口説いちょったんじゃけんど」
「なんだそうだったんですか。道理で」
「この歳じゃけん派手なこっはでけんけんど、籍には入れるつもりたい。こ、
今夜はそ、そのう。・・・・ぎ、儀式をするつもりできたとたい」
「そうですか。そ、それは目出たかこっでごわす」
 ふたりの素振りから薄々と感じてはいたが、三郎はそういう事だったのかと
改めて思った。髪を洗った後、ゆったりと湯に浸かった。
 三人とも湯からあがると、宿の浴衣に着替えて部屋に戻った。部屋には
膳が整っている。三人は一膳ずつ座を空けて胡座をかいた。
「いい湯だったわね」
 伸枝を先頭に女たちも戻ってきた。彼女たちも浴衣姿になっている。
末席の三郎の左横にヒロミが座った。ヒロミの身体から湯あがりの肌の
香りが漂った。
「みんな揃ったところで、あらためて乾杯たい。今夜は楽しんでもらいたい。
それでは乾杯」
 村岡の音頭でコップを掲げた後、三郎はヒロミとコップをコッンと合わせた。
膳には刺身、吸い物、通し肴、焼き物などがあらかじめ乗っている。ヒロミは
コップを置いて三郎の吸い物の蓋を取ってくれた。手を伸ばした時にヒロミの
白い首筋が三郎の目の前を掠めた。三郎はその肌の美しさにすっかり見とれ
てしまった。そういえば、ヒロミの横顔にはどっか自分と似たような哀愁の
色が漂っている気さえする。
 源吉が裾をひらめかせて立ちあがった。昌子は生真面目な顔をして正座し
たまま、ぴたりと両手を膝に置いている。
「ええっと、そのう。ちょいと挨拶するけんど、近々この俺と昌子は夫婦に
なるんじゃけんど、この席を借りて披露宴に代えさせてくれんじゃろか」
「うん、よかよか。それはよか。いやはや、これは誠に目出度かこっじゃ」
 村岡が顔をほころばせてポンポンと手を叩いた。続いて昌子が挨拶した。
「この歳で少し恥ずかしいので御座いますが、今後ともよろしくお願い致します」
「それはそれはおめでとう御座います。昌子さん、よかったわね」
 伸枝の言葉に続いて、三郎もヒロミも祝福の言葉を贈った。
 次々に料理が運ばれてくる。みんな飲んでは食った。時間の経過と共に座も
乱れてきた。三郎は注がれるままに飲んだので、したたかに酔った。それでも
今度はソファに腰かけて飲んだ。足をふらつかせてヒロミもやってきた。今夜は
泊まれるので安心して飲んだのか、だいぶ酔っているようである。左横に腰か
けたヒロミの眼がトロンとしている。上体がぐらっと傾いて三郎の膝の上に倒
れ込んできた。
「ヒロミさん、大丈夫ですか」
 声をかけたが、返事をしない。顔を見ると気持よく眠っている。三郎は膝を
動かさないようにしてウイスキーを注いだ。そのままストレートで飲んだ。後は
寝るだけだから注いでは飲んだ。次第に三郎も頭が茫洋としてきた。相変わ
らず膝の上にはヒロミが横たわっている。不意にスーッと三郎の意識が遠のいた。
「後かたづけがすんだら、ここに布団を敷いてくんしゃい」
「あちらさんはどうしますか」
「起こすのもなんだから」
 源吉と昌子が宿の者と話しているのか、三郎はおぼろげなその声を無意識の
狭間で捉えていた。微かに人の出入りする気配があったようだ。それも束の間
で襖が閉まる僅かな音と共に、闇に閉ざされたまま静かになった。
 どれほど経ったのだろう。三郎は昌子の呻きと想われるあえぎ声を聞ていた。
夢想であったのかも知れないが、それは次第に高鳴っていくようだった。
 三郎は喉の渇きを覚えて、目が覚めた。部屋の様子が変わっている。右手
にふっくらとした柔らかい感触があった。豆電球の薄明かりの下でよく見ると、
それはヒロミの乳房だった。何をしたのかは直ぐに察したが、どうやってこの
部屋まできたのかが欠落している。
「どうしたの。苦しいの」
 三郎に身体を寄せて、ヒロミがささやいた。ヒロミの肌は吸い込まれるほど
白かった。
「ん、いや喉が渇いた。水が欲しい」
 ヒロミが枕元に置いてある水差しに手を伸ばした。三郎は上体を起こして
水を飲んだ。
「ねえ抱いて」
 ヒロミが腰を密着させてきた。三郎の身体の芯に又もや衝動が走った。
 三郎が起きたのは昼に近い時間だった。あの後、精魂尽きるほど愛し
合ったので三郎は脱力感によって眠りこけてしまったらしい。ヒロミは気を
利かせて先に帰ったのだろう。三郎が身支度を整えていると、女中が
やってきた。
「あっ、あのう。村岡さんたちはどうされましたか」
「貴方様は起こさないようにと言付けて、お先にお帰りになられました。
お食事はいかがなさいますでしょうか」
「はあ、食べていこうかな」
 三郎が顔を洗って部屋に戻ると、食事の用意が出来ていた。手早く食って、
三郎が上着を着ると、内ポケットに封筒が押し込んであった。開くと三万円ほ
ど入っていた。指導碁の謝礼として村岡が置いて行ったのだろう。
 旅館を出た三郎は国鉄南福岡駅の方に歩いて行った。一端は源吉の碁会所
に顔を出してから行こうかとも思ったが、不意に昌子のあの声が脳裏を掠めた
ので、今顔を合わせるのもバツが悪いような気がして止めにした。それに博多
駅のコインロッカーにボストンバッグを預けたままになっているので取ってこな
くてはならない。
 三郎は預金通帳から三十万ばかり引き出して碁会所に戻った。ここの三畳間
は少し手狭だが寝泊まりする分には都合が良かった。取ってきたボストンバッグ
は押入に放り込んだ。窓の外は暗くなっているが、碁を打っている客たちが帰
るまでには、まだまだ時間がかかりそうだった。
「畑さん、退屈じゃろ。ヒロミしゃんの所で飲んでこんね」
「じゃ先に行って飲んでます」
 打つ手を止めて笑いかけた源吉に、三郎は率直に応じた。この界隈には飲食
店や八百屋、魚屋が軒を並べ、行き交う客を呼び込む声で賑わっている。パチ
ンコ店や映画館などもあった。斜め右前の店で立ち食い蕎麦を食った後、三郎
はバー麦の扉を引いた。直ぐにヒロミが寄ってきて奥のボックス席に連れて
行った。三郎はビールを飲んだ。ヒロミも飲んだ。
「当分は源さんの碁会所でやっかいになろうかと思う」
「そう。昌子さんは明後日引っ越すそうよ。ねえ三郎さん、ここ終わるまで
居てね」
「ああいいよ」
「ヒロミしゃん、お呼びよ」
 ドレス姿のホステスがやってきて声をかけた。ヒロミが指名されたのだろう。
 翌日、三郎はヒロミのアパートで起きた。ヒロミは割と奇麗好きなのか、
部屋の中は整然としている。昨日から立て続けに愛し合ったので、さすがに
疲れたようだ。もう昼前だった。寝顔の可愛いヒロミにキスをして別れた後、
喫茶店で朝昼兼用の食事を摂った。
 三郎が碁会所に顔を出すと、源吉がにこっとなって声をかけてきた。
「畑さん、近くのご隠居さんが指導にきてくれという事じゃった。他には
漏らしとらんばってん、元プロの四段じゃったと話したら、ぜひにという
とらっしゃったばい」
 昌子が源吉と暮らし始めるのは明日からだが、その前に近所の挨拶
回りをしたらしい。
「それはありがたか。よかですよ。いきもそ。で、どの位で打たれるん
ですか」
「ご隠居というてん病院の院長じゃけんどね。四段でも強か方たい」
「ほう、そうですか」 
「まあー午前中に入院患者を診て回られる位で、殆どは息子さんに任せて
おられるけんね。暇を弄んでおられるとたい」
 源吉に連れられて三郎は出かけて行った。ふたりは野辺総合病院の裏手に
廻った。木戸を潜ると、枝ぶりのいい松や紅葉などの植えられた庭に面して
母屋が建っていた。表札には野辺竜太と刻印されてある。
「さあー上がった、上がった。源さんから話は聞いた。では早速お願い
しよう」
 帰った源吉からは八十過ぎだと聞かされていたが、野辺は背が高く血
色がいいので、ずいぶんと若く見える。七寸のカヤ碁盤に野辺が五子の
ハンディを置いた。碁盤は柾目で、白石は蛤の三十七号である。買えば
何千万かするだろう。
 野辺と三郎はゆっくりと時間をかけて三局の指導碁を打った。野辺は
専門書で研究しているらしく、感覚的には筋の良い碁を打った。
「おっ、もうこんな時間か。なんか食べる物を用意させよう」
 野辺は家の者を呼んで、出前を取るようにと命じた。
「これは今日の謝礼だよ。ところで賭け碁を打っているようだけど、
暇な時は指導しに来てくれないだろうか。どうだろう。明日の昼からは
どうかな」
「ええ、いいですよ」
 謝礼の二万円を受け取って、三郎はぺこりと頭を下げた。
「賭碁師稼業というのは色々と面白い話しもあるんだろうね」
「それはもう時々もめ事も起こりますしね。インチキもやられたりします」
「ほう、それはどんな事をするのかね」
「そうですね。例えば石取りというのがありましてね。中盤から終盤に
かけて石が混んできた時に、相手が自分に都合の悪い石を取っちゃうんです」
「取られた方は気づかないのかな」
「それがですね。実に巧妙な手口なんです。一種の名人芸といえるかも
知れません」
 石取りのインチキを真似て、三郎はさり気なくやって見せた。
「ううん、なるほど。うまいもんだね」
 うなずいて、野辺が頻りに感心した。野辺は三郎の裏話しに興味をもった
ようだった。出前の刺身定食がきたのでそれを食べながら、ふたりは裏話し
に花を咲かせた。
 次の日も昼から夜まで三郎は野辺と指導碁を打った。野辺は一見若々しく
見えるが、やはり老境の域に達しているのだろう。近頃は囲碁を随一の楽し
みにしているそうだ。
「なにか困った事があったら力になれるかも知れない。そんな時はいつでも
相談に来てくれ。それと俺も親乗りとやらでやってみたいから、賭け碁を打つ
時は知らせてくれないだろうかね」
 碁の手の考え方や兵法、ヨミ筋などの適切な指導を受けている内に、
野辺は三郎に好感を抱いたのだろう。今日も三郎は夕食をご馳走になり、
謝礼も貰った。
 母屋を出たのは八時を少し過ぎていた。午前中に昌子の引っ越しを手伝っ
たので、身体の節々が少し痛んだ。三郎はその足でバー麦に向かった。
バーの中は客で混んでいて、カウンターの角が二つ空いているだけだった。
三郎は一番角の席に腰を下ろし、ヒロミの姿を探した。ヒロミはボックス席に
いて、客の相手をしていた。
「やあ、いらっしゃい。なんにしますか」
 カウンター越しに丸山が馴れ馴れしく声をかけた。
「まずはビールをもらいもそ」
 つまみを出してビール瓶の栓を抜いた丸山が一杯目だけは注いでくれた。
「まあーゆっくり飲んでいきんしゃいね」
 丸山は別の客の注文に応じて、離れて行った。三郎はビールを飲み終え
ると、オンザロックを注文した。
「話しはついとるけんね」
 丸山は村岡がキープしたプランデーのボトルをカウンターの上に置いた。
三郎はそれをゆっくりとしたペースで飲んだ。
「あらっ、来てたのね」
 やっと客に解放されたのか、三郎に気づいたヒロミがやってきた。
「やあ、急に君と逢いたくなったのでね」
「わあー嬉しい。ねえ、もう空いてるから向こうに行きましょうよ」
 ヒロミは如何にも嬉しそうに目を和ませた。身体を寄せて、三郎の左腕
を両手で包むようにして取ると、その腕を自分の胸に押し当てた。三郎は
ヒロミの胸の谷間に心地よさを感じながら立ちあがった。ふたりはそのま
まの姿勢で奥のボックス席に歩いて行くと、ソファに深々と身を沈めた。
「いつまでも碁会所に泊めてもらうわけにもいかないし、どっかに一軒家を
借りようと思う。この際だから一緒に住もうか」
「わたしのアパートでもいいのだけど」
「いや、あそこは二人で暮らすには狭いし、声が隣に筒抜けだからね」
 三郎はヒロミの顔をまじまじと見つめた。ヒロミは何かを思い出したように
顔を赤らめて視線を落とした。やや沈黙したヒロミが顔を上げて三郎の顔を
見つめた。
「それなら早い方がいいわね。でも一軒家なら借賃が高いのじゃない
かしら」
「ん、大丈夫だよ。金なら用意してるからね」
「すぐに見つかるかしら」
「ううん、自分たちで探すより、村岡さんたちに頼んだ方がいいだろうね」
「ええそうね。あっ、お店もうすぐ終わるから、ちょっと待っててね」
 三郎に身体をすり寄せて小指と小指を絡ませると、ヒロミは立ちあがった。
 身じたくを整えたヒロミが戻ってきたので、ふたりはバー麦を出た。
路地を通って大通りを五百メートルほど歩いて国道を横断した。
 ここからは大野城市になる。ヒロミの住んでいるアパートは、さらに
三百メートルばかり歩かなければならない。ヒロミの部屋は二階にある。
ふたりは階段を上がった。ドアを閉めるなり三郎はヒロミを抱き寄せて、
口づけをした。爪先立ちをして、それにヒロミも応じてきた。
「先にお風呂に入る」
 長い口づけの後、少し恥じらうようにしてヒロミが身体を離した。
 三郎が風呂から上がると、ヒロミがビールを持ってきた。
「わたしも入るから飲んでてね」
 バスタオルを腰に巻きつただけの姿で、三郎はビールを飲んだ。
 頼んでおいた一軒家は一週間ほどで村岡が見つけてくれた。さすがに
村岡が探してくれただけの事はあって、その借家は源吉の所から四百
メートルほどしか離れていない商店街の一角にあった。三郎は即急に
借りる手筈を整えて、ヒロミと移り住んだ。おまけに村岡はヒロミの転
職先まで見つけてくれたのである。なんでも電話の取り次ぎの仕事で
あるらしかった。ヒロミは転職した。それやこれやで何となく慌ただし
い数日が過ぎた。
 このところ三郎は雑用の合間に小さな賭け碁を打ったり、野辺と指導碁を
打ったりして相変わらずの日々を過ごしていた。ヒロミとの暮らしも落ち着い
たからというのではなかったが、賭碁師仲間に連絡したりして本来の仕事で
ある博打情報を集めていた。
 近くの店で昼食を摂った三郎が碁会所に顔を出すと、村岡がきていて源
吉と雑談をしている最中だった。三郎に気づいた村岡が手招きをしながら
声をかけてきた。
「やあ畑さん、例の賭け碁の話しじゃけんど、打つ日取りが決まったばい」
「そうですか。で、いつ打つんですか」
「来週の日曜日じゃけんど。ええっとそれから親乗りで二百万ずつの賭け
金たい」
「あっ、あのう。その話しちょっと待ってくれんですか。実はですね。
野辺さんも親乗しりがしたいというておられるとです」
「ん、おっ、そうじゃった。ついうっかりしとったばい」
 源吉が僅かな頭髪を撫でて、素っ頓狂な声をあげた。
「野辺さんというと、あの病院の」
「村岡さん、そ、そうですばい。そうじゃ野辺医院長にはこの源しゃんが
二百万で話しをつけるけんね。もうひとり相方を探してくれんじゃろか」
 源吉は三郎が勝てば賭け金の一割が貰えるので大乗気になった。元々
血色のいい源吉だが、昌子と暮らし始めてから益々若返ったようだ。
そんな源吉が膝を乗り出して太鼓腹をポンと右手で打った。
「おう、源しゃん、それは心配せんでんよか。野辺さんの相方は直ぐに
見つかるじゃろう。俺の相方、俺が賭けるのは不動産業の神原社長じゃ
けんどね」
「あっ、あのう。おいどんの対戦相手はもう決まっちょっとですか」
「畑さんに打ってもらうのは小林健治とかいうやつたい」
「ええっ、あの小林健治ですか。まだ会った事はなかとですが、やつには
賭碁師仲間がインチキをやられているんでごわす」
「ほう、畑さん、知っとったんか。そうじゃれば源しゃん、気をつけんと
いかんばい」
「うんうん、じゃけんこの源しゃんが用心棒たいね。で、どんなこっする
んじゃろか」
「やつの手口は打つ前から石を隠し持っていて、作る時にそれを相手の
地にうめるんです。二、三目の差ならそれで逆転ですね」
「そ、それは偉いこっやらかすもんたいね。それで対策はあるとじゃろか」
 村岡はポケットから煙草を取り出すと、一本抜き取って火をつけた。
「そうですね。いかに巧妙な手口といえど、四目以上の石をうめると、
ばれる危険度が高くなりますから、そこが狙い目ですね」
 三郎が賭碁師仲間から聞いた話しによると、小林の棋力は県代表クラス
という事だった。と、いう事は三郎が二子か三子か置かせても打てるはず
である。
「小林のやつ、相当な自信家たいね。神原さんとの話し合いで手合いは
互先四目半コミ出しと決まったばい」
「そうですか。じゃ、いずれにしても盤面で十目以上の差をつけて勝ちもそ。
インチキさせてもせいぜい三目まででしょうからね。それでどうでしょうか」
「よし、それでよか。あはっ、インチキばあやらせておいて、後で神原さん
に知らせてやるとたい。それで少しはとっちめてやらんとね」
「村岡さん、それだけは止めといてくれませんか。いくらインチキするとは
いっても同じ賭碁師の端くれですからね。こっちが勝てば文句はなかで
しょう」
「畑さんがそういうとなら、黙って見とこうばい」
 村岡が目を細めてぷーっと煙草の煙を吐き出した。三郎には村岡や野辺と
いった後ろ盾ができた。おそらくは小林にとって神原が似たようなものだろう。
浮き草のように生きる賭碁師には、そうした存在は大切にしなければならない。
 話しが一段落したので源吉は野辺の所に出かけて行った。三郎も村岡と指
導碁を一局だけ打ってから野辺の所に出かけた。
「さっき源しゃんから話しは聞いた。じゃけん二百万は用意したが、これは
どうすればいいかな。おれも見に行きたかけんど、その日は用事がある
んでな」
 碁を打ちながら野辺が目を輝かせて、封筒を三郎の横に置いた。
「じゃ、これは源しゃんに預かってもらいもそ」
 数日後には野辺と賭ける相手も決まり、いよいよ賭け碁を打つ日がやって
きた。対局場はこの界隈にある料亭だそうだ。村岡は先に行っているという
ことで、三郎は源吉と共にそこに向かった。対局開始は午前十時からだが、
三十分ほど前に着いた。
「やあ来た来た。畑さん、紹介する。こちらは神原社長。こちらが野辺医
院長の相方になってもろうた北園産業の会長さんたい。これが小林君。
これは用心棒の源しゃん。この源しゃんには審判になってもらう」
 村岡が一人ひとりを紹介した。神原と北園は容貌も、ゆったりした動作も
さすがに貫禄があった。三郎は筋肉質の身体ですらっとして上背もあるが、
小林は痩せ形で少し背も低く、歳も幾分若く見えた。目尻の辺りに卑屈さを
漂わせている。
「ええっと、打つ前に賭け金ばあ預からせて頂きたかとです。これは野辺
医院長の賭け金と村岡社長の分ですたい。確認してくんしゃい」
 源吉が風呂敷を広げて封筒から二百万ずつの札束を出して見せた。
「おう、確かに確認した。これは儂の分たい」
 神原が封筒から札束を取り出して見せた。そしてそれを源吉に手渡した。
北園も同様にして手渡した。源吉はそれらを風呂敷に包むと、胴巻きのよ
うにして腰に縛りつけた。
「わっはっは、ちょいと不細工な格好になったけんど、この方が安心でき
るけんね」
 小宴会用の和室の中央に盤石が置かれているが、襟首を覗かせるように
着物を着た女将がやってきて、碁盤の横にお茶とおしぼりを置いていった。
「そろそろ時間じゃけん、それでは打ってくんしゃい」
 握りの結果、小林の先番となった。今日は対局者に思う存分考えさせた
いという配慮からか、特に持ち時間は定められていない。
 三郎は序盤から中盤にさしかかる辺りまで地合いのバランスを取りながら、
小林の打つ手を見守った。小林は足早に布陣して引き離そうとするが、
石の連携に無理があり、黒模様には一、二カ所の隙が生じている。
小林は一手一手に時間をかけて慎重に打ってくる。
 ここまで三郎はちょっと小考するといったテンポで打ってきたが、
八十二手目でぴたりと手が止まった。腕時計に目をやると二時間近くが
経過していた。今が黒模様の隙を衝くチャンスと判断した三郎の打つ手が
しなった。瞬間的にギョッとなった小林が八十三手目を長考に入った。
「今、小林君の手番じゃけんど、お昼になったけん一時まで休憩とする」
 暫くして源吉が太鼓腹に両手を当てて、野太い声で宣言した。小林が
ホッとしたように盤上から顔をあげた。襖で仕切られた続き部屋に昼食の
用意ができているらしかった。
「勝負はまだこれからじゃけんど、ふたりの健闘を称えて乾杯といこう
じゃなかね」
 昼というのにボリュウムたっぷりの日本料理が整っていた。この席での
年輩者である北園がビールの入ったコップを掲げた。北園は今でこそ
産業株式会社の会長に納まってはいるが、土建業から叩き上げた人物
らしい。一見穏やかそうな顔はしていても、こういった人物を一端立腹
させるとどうなるか、三郎には経験上の心得があった。
 三郎はコップ一杯だけビールを飲んで料理に箸をつけた。時間をかけて
ゆっくりと食ったが、とても食べきれる量ではなかった。小林もそこそこに
食って箸を置いた。ふたりを尻目に村岡たち四人は大いに飲み、大いに
食っている。全部たいらげたようだった。
「ううん、食った食った。さてと試合再開とするか」
 源吉が太っ腹を撫でながら立ちあがった。皆ぞろぞろと続き部屋に移って
三郎と小林が碁盤の前に着座すると、村岡と源吉が右側に神原と北園が左
側に並んで胡座をかいた。
 小林の手番だが、盤上を睨んでなかなか打とうとしない。沈黙したまま
二十分が経過した。小林は時おり顔を上げて三郎の顔を盗み見てくる。
三郎が打ち放った白石は弱々しく見えてはいても到底攻めきれないのだが、
それに襲いかかろうとでもいうのだろうか。
 さらに五分が過ぎた。ようやく小林が黒石を掴んでバチンと打った。
やはり白石を取りにきたのだ。しかし、この白石は敵陣深く送り込んだ忍者
である。三郎はヨミ筋通り次々に忍者を投入した。遅々とだが、着手が進
んだ。やがて白石は本陣との連絡を断たれ孤立したが、山城と忍者村を
作り生還した。これで形勢は白に大きく傾いたようだ。三時間あまりの攻
防戦も終わり、ここからは大ヨセに入る。三郎は勝ちを確信した。
 小林が手になりそうでならない所を突ついてくる。三郎は一気に離す事も
できるのだが、あえてそれをしない。いくら、金持ちの道楽といってもこの
勝負で大金が動くのだ。大差で勝っては小林の面目が立たないだろう。
さらにヨセて一時間ばかりが経過した。
「ようやく終わりましたね」
 三郎がダメを詰めながら初めて小林に声をかけた。三郎の目算では
盤面で白五目残りだから、コミを加えると白の九目半勝ちになるはず
だった。
 作り始めると、小林は隠し持っていた十個の白石を巧妙な手つきで
白地の中に埋めた。
「盤面で黒五目残りか。コミを引いて黒の半勝ちですね」
 盤面から顔を上げた小林が目尻に卑屈をたたえてにやりとした。
三郎が小林の顔を睨んだ。二、三個ならいざ知らず十個も埋めるなんて
無茶苦茶である。三郎は呆れて言葉も出なかった。
「この勝負まちんしゃい」
 源吉より早く北園が一喝した。小林がギクッとして肩をすくめた。
「北園さん、どうしたんじゃ」
 神原だけが気づかなかったのか、びっくりしたような顔をして訊いた。
「こ、こいつがインチキばぁしたとたい」
 北園が物凄い剣幕で小林を指さした。大金を賭けての勝負だから北園も
村岡も源吉も神原も熱心に見守ってきたのだ。村岡や源吉もだが、特に
北園は指を折ったり、頭を上下させたりしていたので何回も目算してきた
のだろう。
「お、俺は何もしちょらんばい」
 小林が強気な声を出して立ちあがろうとした。ここで我を張った為に
北園を完全に怒らせてしまったらしい。
「ま、またんかい。そうまでいうとなら一手目から再現してみい。嘘なら
ただじゃすまさんばい。なあ村岡さん、どうじゃろか」
「おう、そうたいね。それがよか。畑さん、やって見せてくれんじゃろか」
 頷いた三郎は盤上から碁石を片付けると、小林をうながせた。小林の
顔が蒼白になっている。打った手順通り並べ始めたが、何手か進んだ
ところで小林の手がふるえた。
「か、会長さん、す、すいません。確かにインチキば、やりました。
どうか堪えてくんしゃい」
 小林は素早く座布団を跳ね退けると、北園の方に向きを変えて
土下座した。
「今さら謝るとなら最初からそうしとけばよかもんを。こうなって
しまった以上、懲らしめてやらんと腹の虫が治まらんけん、どう
してくれようか」
「どうぞご、ご勘弁を。この通りじゃけん。けんど、これは会長さん
等に損をさせたくなかったけんやった事ですばい」  
「なんばいうとるんか。わしが賭けとるのは真剣じゃからたい。
何も八百長してまで勝つこっはなか。村岡さん、どうじゃろか。
こいつに指をつめさせるということで」
「ひぃ、そ、それだけは許してくんしゃい」
 小林が顔をゆがめて畳に頭を擦りつけた。ただの脅しだったかも知れ
ないが、一度つむじを曲げた北園は修復不能になったらしい。
「北園さん、それも面白かけんど、ちと血を見るのも気色悪かけん止めと
こうばい」
「止めるのはよかけんど、このままじゃ道理が通らんけんね」
「北園さんのおっしゃる通りたい。何かお仕置きせんと村岡さんや野辺
さんに申しわけなか。おい小林君この始末どうしてくれるんか」
 神原が小林をどなりつけた。こうなっては引っ込みがつかなくなって
しまったようだ。
「どうです神原さん、あんたの賭け金の半分と、わしの分の半分をこい
つに出させるというのは。そうでもせんと腹の虫がおさまらんたい」
「北園さん、この始末この源しゃんに任せてもらえんじゃろか。こっち側の
村岡社長や野辺院長は小林君がインチキする事を承知の上で賭けておら
っしゃったとじゃけん。神原さん、それでどうじゃろか」
 その日暮らしをしているような小林に二百万もの大金が工面できるはず
がない。真っ青な顔をして項垂れている小林を見るに見かねて、源吉が
身を乗り出した。
「なんや、あんたら最初から知っとって賭けに乗っとったんか」
 神原の表情が少しやわらいだようだ。神原はゆったりとその顔を北園の
顔に向けた。
「なあー北園さん、小林君の処置は源しゃんに任そうじゃなかね」
「ううん、まあーよかじゃろう。どうするかは知らんが、あんたに任せるばい」
 そこそこに小林を脅したので、北園も少しは気がすんだのだろう。小林は
賭け金の分け前を充てにしていたらしく、文無しだった。源吉は小林に碁会
所の場所を教えて、そこで待てと指図した。そそくさと小林は出て行った。
「畑さん、小林のやつインチキはするけんど、碁はどうたいね」
「ええっとそうですね。肝心なところでの冷静さと柔軟な対応ができさえ
すれば、なかなかの腕前なんですがね」
 村岡の問いに三郎は即答した。小林の勝負師魂を鍛え直せば、他の
賭け碁で使えるかも知れない。
「わしの目算では確か白九目半勝ちになっとったけんどな。畑さん、
正確には何目勝ちだったとばい」
「おおっ、さすがは北園さん、そん通りでごわす」
 三郎の言葉に北園は誇らしげにふふっと笑った。
「神原社長、それに北園会長、この賭け金は預かって行きますばい。
また今度やるときは畑さんの側に乗ってくんしゃい。そうすれば、直ぐに
取り戻せるけんね」
 腰に巻き付けいた風呂敷を一端解いて、肩がけに縛り直した源吉が
太鼓腹をゆすった。
「おう、源しゃん、それはよか。今度の時は是非そうしたかけんね」
「そうたいね。村岡さん、神原さん、どうじゃろう。相方を四人探そう
じゃなかね」
 神原の要望に応えて北園が提案した。村岡がにこりとして頷いた。
これで八百万ずつの賭け碁が成立するかも知れない。
「もう六時前か。神原さんとわしは飲みに行くけんど、村岡さん等はどうするね」
 北園が腕時計を見ながら訊いた。ふたりはこれから中州に向かうらしい。
「いや今日は遠慮しとこう。近いうちに四人対四人乗りでやろうばい」
 村岡が右手を振った。三郎たちは源吉の碁会所に戻った。常連客に交じっ
て、そわそわと落ち着かぬ様子の小林が待っていた。小林は放っておいて三
畳間に入った。源吉が肩がけにしていた風呂敷を広げて畳の上に置いた。
村岡が二つの封筒を取って声をひそめた。
「取りあえず、俺の分だけ分配しとこうばい。まず畑さんの取り分が八十万。
源しゃんが二十万。俺が元金と合わせて三百万。後は野辺さん宅でやって
くれ」
 三郎と源吉に金を手渡して村岡は自分の分を内ポケットに仕舞い込むと、
残った二つの封筒を風呂敷に包んでそれを源吉の方に押しやった。
「じゃ畑さん、これから野辺院長の所に出かけてこようたい」
 にやにやしながら源吉が風呂敷を取って肩がけにした。三郎は頷いて
立ちあがった。            


 
著者  さこ ゆういち       
小説プロくずれ 
第2章大博打 
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