小説 プロくずれ
 三郎が野辺の分配金である八十万を受け取った日から半年が過ぎた。あの日
以来、小林は碁会所に居ついている。三郎は指導碁や賭け碁の合間に小林の
勝負に対する精神面を鍛え上げてきた。小林と打ってから三週間後には北園の
望み通り四人対四人の親乗りで賭け碁を打った。対戦相手は流石に手強い賭
碁師だったが、ぎりぎりのヨミ競べで三郎に一歩及ばず敗退した。一人に二百
万ずつの賭けだったから、三郎は四人分の総額で三百二十万を受け取った。
ヒロミとの生活費は日頃の稼ぎで賄えるので全て預金した。
 ここ二、三日ヒロミの体調が優れないようである。ちょっとした事でイライラ
したり、吐き気がしたりするらしい。風邪でもひいたのだろうか。
「野辺さんの所で診てもらった方がいいかもね」
 夕食の後、三郎はヒロミを抱き寄せて、額に唇を押し当てた。別に熱は
ないようである。
「じゃ明日の午前中に行ってくるわ」
 ヒロミが唇で三郎の唇を求めてきた。三郎はそれに応じて口づけした。
 次の日の午後、三郎は野辺との指導碁を打ちに行った。途中で碁会所に
顔を出したので、ヒロミとは行き違いになったのだろう。
「おう畑さん、君の奥さんはお目出度だよ」
 野辺が右手で小さな虹を腹の上に描いて見せた。
「ほ、本当ですか」
 三郎は一瞬びっくりしたが、じわじわと嬉しさが込み上げてきた。
 三郎は指導碁を終えると、飛ぶようにして帰ってきた。直ぐにヒロミを呼び
寄せると、腰に手をまわして腹にそっと耳を当てた。
「あまっ、ふふ、まだ何も聞こえるわけないでしょう」
 ヒロミは両手で三郎の顔を包むようにして抱くと、いかにも嬉しげに笑い声を
たてた。
 三郎は母親に連絡してヒロミの入籍に必要な書類を送ってもらう事にした。
徳蔵には内緒で、千代に時々電話をして居所だけは知らせてきたのだった。
 源吉と昌子は相変わらず、オシドリのように仲がいい。最近は度々ふたり
で温泉などに出かけて行ったりするので、碁会所は小林に任せる割合が多
くなった。
「少なかけんど、これは今月分ばい」
 小林は源吉が月々の謝礼金をくれるのと、少額の賭け碁を打つ何人かの
客がいて食うには困らないようだ。三郎が鍛えてきたので、小林はインチキ
をしなくなっている。碁も少しは勝負強くなっていた。
 ヒロミを入籍した日から一週間ばかりが過ぎた日、大分を根城にしている
岩見重太郎から三日後に別府で賭け碁の集まりがあるので来ないか、と、
いう誘いの知らせが入った。
 岩見は牢破りの重太郎という異名を持つ筋金入りの賭碁師である。知り
合ったのは三郎がまだ九州に流れ着いたばかりの頃であった。いくら元プ
ロの三郎といえども賭け碁の事はあまり知らなかったから時にトラブルも
起った。
「この若造のこっは、俺が引き受けるけん任せてもらうばい。ささっ、払
うべきもんはつべこべぬかさず、さっさと払わんかい。おいこらっ、それで
文句のあるやつは前に出てこい」
 ある賭け碁の場で三郎が一人勝ちしたのを妬たんでイチャモンがついた。
その時、重太郎が真っ先に負け金を出して啖呵を切った。ふたりになって
から三郎は助けてくれた謝礼として、彼の負け金にいくらか上乗せした額を
重太郎に返した。そんな事があったので駆け出しの三郎に重太郎は好感を
もったのかも知れない。親身になって重太郎は賭碁師としてのイロハとか
縄張りとかがあるのを三郎に教えてくれた。のみならず、重太郎は三郎を
連れて回り、地域ごとの縄張りに渡りをつけてくれた。お陰で三郎は殆ど
の賭け碁の場にフリーパスで通れるようになった。囲碁の実力はともかく
としても、重太郎は三郎にとって賭碁師の師匠といえる存在である。
 三郎は今回の別府行きに小林を同行させようと思った。しかし、いくらか
勝負強くなっているとはいえ、小林の腕ではいささか心許ない気がする。
三郎は旅立つまでの三日の間に特訓して策を授けることにした。
「小林君、これから透視というのを教えるから正確に憶えるんだよ。君の
対局中は僕が相手側の後ろにいるので、難しい局面になったら誰にも悟
られないように、さり気なく僕の動作を見るんだ」
「分かりました。それで、兄貴どうするんです」
「いいかね。まず、僕が煙草を取り出したらその部分は打たず、一時
放置する」
「兄貴が煙草を取り出した時は、そこは打たずに放っておくんですね」
「第二に腕組みしたら打つのを止めて待つんだ。僕が透視の信号を送る
から、その通りに打つんだよ」
「兄貴その透視の信号というのは、どうやるんです」
「こうするんだ。これが3ノ九に打てだ」
 三郎は右手の指でリズムをとっているかのように動かして見せた。
3回で休み、続いて9回だ。
 解説用の大きい碁盤には、横と縦に数字が書いてある。3ノ九と
いった場合はその数字の交点がそれに当たる。実際に打つ碁盤には
書いてないが、ある程度の訓練をしさえすれば、その数字の交点は
簡単に解るようになる。
「兄貴。で、でも三日うちに交点の解読ができるようになるか、どうか」
「小林君、ほら左上の星が4ノ四。その下の真ん中の星が4ノ十。そし
て左下の星は4ノ十六だろう。星の黒点は九コあるけど、全て四、十、
十六の組み合わせだから星は直ぐにでも記憶できるはずだ。それを
基準にすれば後は簡単だろう」
「さすがは兄貴。な、なるほど」
「じゃ小林君、やってみよう」
 小林が何度も頷いて眼を輝かせた。三郎は碁盤の前に小林を腰かけ
させると、稽古に入った。
「黒と白を交互にいうから、その通りに打ってみて。黒3ノ十六。・・・
白5ノ十七。・・黒9ノ十七。・・白4ノ十六。・・黒3ノ十五。・・
白3ノ十七」
 三郎は左下隅での三間バサミ定石の手順を口頭で告げた。口頭なら
小林もどうにか並べられるようだ。
「よし、今度は指でやろう」
 三郎は右手の指でリズムカルな信号を送った。一回目失敗。二回目もダメ。
「ううん、指の動きが・・・・」
 小林は三郎の指の動きを真剣な眼差しで直視しているが、透視のサインが
判読しにくいようである。さり気なく見ないといけないのに、これではバレて
しまうだろう。
「ん、よし、扇だ。扇を開いて仰ぐ回数と、閉じて肩を打つ回数を数えるん
だ。ゆっくりやるから、それなら判るだろう」
 扇は囲碁将棋を問わず、棋士の所持品の一つだから少々大げさにやっても
バレる心配は先ずないと思っていい。三郎は筆で【石心】と書いた自筆の扇
を開くと、おもむろに大きな動作で九回仰ぎ、閉じて十四回肩を叩いた。続
いて同様に八回と十二回。
「9ノ十四。8ノ十二」
 小林がつぶやいて正確な位置に石を打った。三郎の凄さは小林の正面側
から碁盤を見ていることだ。それは左上から右方向と、左上から下方向にあ
るはずの数字が全くの逆になるからである。つまり、三郎から見ると右下隅
【17ノ十七】は小林の方からすれば、対角線上の左上隅【3ノ三】になる
のだ。
「透視のサインはこれでよし。さて、小林君これから交点の正確な位置の
特訓だ」
 三郎は一呼吸すると、速いテンポで交点の位置を告げていった。しかも
盤上ありとあらゆる位置に飛ばしてである。小林が必死になって石を置いた。
 小林を連れた三郎は大分方面行き一番列車に飛び乗った。別府での賭け
碁の会は温泉旅館を借り切ってやるらしい。三郎は窓外の景色から小林の方
に顔を振り向けた。
「小林君、どうやら完璧に憶えたようだね」
「兄貴、あれだけ繰り返し特訓されると、馬鹿でもチョンでも憶えますよ」
「打つ手が判らない時や、ヨミが複雑で難解な時は顔を天井に向けて考え
るふりをするんだ。それが僕に対する合図だ。まあー透視をするにしても
一手か二手。三手もやれば、後は自分で解決できるだろう」
 小林が頷いた。三郎は煙草に火を点けると、再び窓外に目を向けた。
 ふたりは列車を乗り継いで別府に着いた。駅前からはタクシーで指定の
温泉旅館に向かった。
「やあー畑さん、来たな」
 案内されて二階の部屋に通されると、頭髪を短く刈り上げた重太郎が
笑みを浮かべて手を上げた。重太郎は七十歳を少し越しているかも知れ
ないが、がっしりした体つきで、凄味のある顔立ちをしている。
「岩見さんのお誘いに早速飛んで来もした」
「畑さん、挨拶はせんでもよか。ところで、そちらさんは」
「これ小林君、こちらがここの元締めの岩見さんじゃっで、きちんと挨
拶しとかんね」
「駆け出しの小林と申します。これからよろしくお願いします」
 小林は碁を打ちかけの重太郎の横に正座して頭をさげた。重太郎の
他に六人いて、既に三組が賭け碁を打っていた。
「ん、丁度よか。寺元の旦那、このどちらかと打つてみらんかね」
 重太郎が観戦中の寺元に声をかけて、手招きした。寺元が顔をあげ
て振り向いた。
「おう、よし。打とうばい。そちらさん方はどの位で打たれると」
「ふたりとも五段です。では、小林君が打ってもらいなさい」
 三郎は扇を取り出して小林に目配せした。部屋の片隅に三面の盤石が
積んであるので、小林が立ちあがって取りにいった。
「寺元の旦那も五段じゃけん、互先で打ちんしゃい」
「岩見さん、賭け金はどういう取り決めですか」
「一応は五、一の目碁じゃけんど、相手がいれば親乗りもできるばい」
 五、一の目碁とは一局の勝負が五千円で、それに勝ち目数が加算さ
れる賭け碁である。
 勝ち目数は十目単位で一番とし、一目でもハネ上げると二番となる。で、
一番が千円というわけだ。つまり、十一目の差なら勝負の五千円プラス二
番の二千円で合計七千円となる。互先の場合は四目半のコミ出しがあるけ
れど、半目ハネ上げても一番と見なす。これは打つ者同士の賭けだが、
無論これに親乗りで賭けることもできる。
「それじゃ小林君とやら、握ってくんしゃい」
 色白で肉付きのよさそうな寺元が碁盤を前に小林と対座した。五十代
後半かと思われる寺元はどことなく態度が鷹揚である。重太郎が旦那と
呼んているところから察するに老舗か大店の旦那なのかも知れない。握り
の結果、小林の先番と決まった。三郎は少し離れて寺元の右斜め後ろに
座った。
 この碁は小林が無難に打ったというより、寺元が勝手ヨミをした為に黒の
五十三目半勝ちで終わった。小林はこれで六番勝ち。勝負の五千円と合わ
せて一万千円を稼いだ。賭け金は後で決算するので、重太郎が記録する。
「畑さん、昼飯にするか。みなさんも終わり次第食ってくんしゃい」
 重太郎が三郎に声をかけた後、やや声を高めた。重太郎に従って三郎は
階下に下りた。
「畑さんは何にする」
「海鮮蕎麦というのがありますね。これにしますか」
「じゃ俺も。海鮮蕎麦ふたつ」
 洋間の部屋で重太郎が注文した。メニューを受け取った若い女中が部屋
から出て行った。三郎は女中が注いで去った茶碗を取って、お茶を啜った。
「午後から松坂屋の主が来ることになっとるんじゃけんど、畑さん、俺に透
視をしてくれんじゃろか。畑さんは俺に親乗りしてもよかとじゃが」
「よかですよ。やりもそ。サインはこれですよ」  
 三郎は扇をかざして見せた。重太郎とは何回もコンビを組んでいるので、
それで充分だった。
「あの主とは、俺の方が分が悪いからな。主に親乗りしてくるやつは大勢
いるとたい。じゃけん、俺は自分に親乗りするとたい。ところで畑さん、
軍資金はいかほどあると」
「五百万ほど用意してきました」
 三郎は六百万を預金から引き出してきたが、百万は小林に貸していた。
「その中から百万ばかり貸してくれんじゃろか」
「それもよかですよ」
「たぶんここでの親乗りは、その一回だけが大儲けの勝負じゃろうから」
 重太郎がフンと鼻を鳴らして、にやりと笑った。どうやら二階に集まって
いる連中も松坂も重太郎が負けると踏んでいるようだ。海鮮蕎麦が運ば
れてきたので、ふたりはそれを食った。旦那らしき二人と共に小林もやっ
てきた。
「ううん、食った食った。旨かった。畑さん、この大地主の立花さんと打
たんかね」
 重太郎が中年太りの男の方を指さした。立花がふんどり返ったように
して頷いた。
「それ食べたら、お願いできますか」
「おう、やろうやろう」
 立花が蕎麦を飲み込んで、三郎の方に視線を向けた。
「じゃ上で待っとるばい。畑さん、戻ろう」
 重太郎と三郎が出るのと入れ違いに、残っていた四人がぞろぞろと
入ってきた。
 立花は五段だから互先だ。三郎はこの碁を白番で半目負けた。わざと
そうしたのだが、調子づいた立花はもう一局申し込んできた。今度のは
三郎の先番である。
「あん、盤面で四目か。またしても半目負け。なんでだろう。こんなはず
はなかとに」
 三郎は一芝居して、ぼやいて見せた。立花が鼻を膨らませてニヤついた。
「ツキがなかっただけじゃろう。ほらもう一局どうかね」
「畑さん、松坂屋の旦那がきんしゃったけん、打たんといてくれね。旦那か
俺かに親乗りするお方は申し出てくんしゃい」
「よし、儂は儂自身に二百万じゃ。誰ぞ牢破りの重太郎さんに賭けるやつ
はおらんか」
 先ず、松坂が名乗りをあげたが、誰もこれには賭けてくる者がいなかった。
「せっかくじゃけん、松坂の旦那のは俺が俺自身に二百万賭けて乗ろうたい」
「これっ、重太郎さんよ。威勢はいいが、金は大丈夫じゃろうな」
「松坂屋の旦那、ほらっ、この通りでござんすよ」
 重太郎がむっとしたように三郎から借りた百万と自分の金の百万を出して
見せた。
「よし、儂も松坂さんに百万賭けようたい」
「俺も同じく百万」
 寺元に続いて、佐々木と名乗る背広を着込んで身なりの良い初老の男が
申し出た。それが引き金になったかのように、儂も俺もと三人が続き、最
後に立花が申し込んだ。
「やれやれ、この岩見重太郎も見下げられたもんたい。誰か俺に親乗りす
るやつはおらんのか。これじゃ賭けにならんばい」
「この賭け、おいどんが四人分は岩見さんに乗りもそ。ん、小林君も賭け
んかね」
 三郎が声を張った。そして小林の方に振り向くと、扇で肩を軽く叩いて
見せた。
「おお、畑さん、よういうてくれた。よし、畑さんの賭けの相手は寺元さ
んに弁護人の佐々木さん、それに矢沢さんと永井さん。それぞれに百万
ずつ。近藤さんには小林君が百万じゃ。立花さん、立花さんは今回は見
送ってくんしゃい」
「まあー重太郎さんに乗るやつがおらんとじゃけん、今回のは仕方なか」
「よし、これで決まりじゃな。皆さんそれで文句はなかじゃろな。文句が
なかったら打ち始めるけんど、今二時を少し回ったところじゃけん、夕食
の八時までに終局としたい。松坂屋の旦那、それでどうだろう」
「おう、それでよかぞ。じゃ握ろうばい」
 松坂が白石をガバッと掴んで盤上に突き出した。重太郎が一個の黒石
をつまみ取って、ポンと盤上に置いた。松坂が白石を二コずつに分けて
並べた結果、一つ残り。当たった重太郎の先番で対局開始となる。他の
者は勝負の行方が気になるらしく、ぐるりと取り囲んで胡座をかいた。
二十分ほど経って、ようやく重太郎が左上隅に五手目のカカリを打った。
 松坂は六手目の白をなかなか打とうとしない。受けか、ツケか、ハ
サムか、手抜きか、この一局の骨格を決める分かれ目だから当然であ
る。二分、三分と小刻みに沈黙が続く。
 松坂は五分ばかり考え込んだ末に、穏やかな受ける手を選んだ。
途端に、ジーッと見守っている者達の間から、ふうーっと溜め息が漏れ
た。三郎の肩を誰かが小突いた。
「ん・・・・」
 振り向いた三郎に、立花がちょっと来いというように手招きした。三郎は
頷いて見せた。
「あの碁は時間がかかりそうじゃけん、もう一局どうじゃろか。どうせ我々
のは一時間もあれば終わるとじゃし」
 三郎が立って行くと、立花は声をひそめてほくそ笑んだ。
「よか。打ちもそ。あん、煙草がなか。ちょっと買ってきもす」
 三郎は小林を呼んで階下に下りると、辺りを窺って小声で告げた。
「小林君、いいかね。僕は今から碁を打つけど、岩見さんから合図があった
り、不穏な戦いになりかけた時は直ぐに知らせるんだよ」
「兄貴、がってん承知です」
「あっ、そうだ。小林君、煙草を買ってきてくれないか」
 小林が頷いて顔を上下に振った。小林の後ろ姿を見送って、三郎は二階
に戻った。立花との三局目は三郎の白番である。三郎たちが打ち始めて暫
くすると、矢沢と近藤がやってきた。重太郎と松坂の碁が進まないらしい。
彼等も隣の盤石で打ち始めている。続いて佐々木と永井もやってきた。
「あれれ、またしても半目負けか。どうも立花さんには苦手意識がついた
ようですね。あちらで頭を冷やしてきもす。よかったら小林君とどうですか」
「ここに集まった連中は碁好きばかりじゃけんね。打とうじゃなかね」
 立花が得意気に、にっこり笑った。三郎は座を立って、重太郎の対局を
観に行った。小林が立花と打つのに座を離れたので、三郎と寺元が観てい
るだけとなった。
 これまでのところ形勢は互角のようだ。と、三郎は判断した。重太郎も松
坂も一手一手慎重に打っているのでミスがない。決定打がないまま時間が
どんどん経過し、中盤戦の競り合いに突入したが、ここ辺りから松坂の打つ
手が巧妙になってきた。重太郎が力を出す
と、剣先を軽くかわされてしまうのだ。じりじりと、黒は少しずつ損を重ねて
いる。だが、もう白黒ともに大石が死ぬような事件は発生しないだろう。
 午後七時を回ったところで、大ヨセに入った。二人ともヨセの正確さは流石
だった。三郎が目算したところでは、盤面でも十二、三目の差で重太郎の負
けがはっきりしてきた。
 皆も集まってきていて見守っている中で、いよいよ小ヨセになった。後三十
数手ほどで終局するかと思われる。
 ふと、三郎は上辺の白に目を止めた。その一瞬、稲妻のように何かがキ
ラリと閃いたのだ。三郎は扇で手の平をポンポンと叩いた。重太郎が天井を
仰いだ。天井を睨んだままの姿勢で、重太郎は動きを止めている。白と黒の
石が逆になっているから今まで気づかなかった。よく見ると、玄玄碁経に載っ
ている【飛魚勢】と題された詰碁の問題とそっくりではないか。三郎はヨンだ。
黒先、白死のかかった取り番のコウに違いはなかった。三郎が扇で手の平を
叩いた。
 三郎は扇を開くと、ゆっくりとした動作で五回大きく煽った。閉じて肩を
一回だけポンと打った。重太郎がおもむろに黒石をつまんで【5ノ一】に
置いた。松坂の肩が一瞬ギクッとしたように見えた。松坂が前屈みになっ
て考え込んでいる。八分ほど考えた末に、四子の白石を捨てる【3ノ一】
に打った。三郎のヨミ筋通り、松坂は捨て石をエサに本体だけ生きようと
している。重太郎がザクッと手を器に突っ込んだ。三郎はハッとして、慌て
て手を叩いた。辛うじて重太郎がそれに気づいた。気づかなかったら白四
子を切り取っていたかも知れない。四子を取っても倍の八目でしかなく、
ダメの目減りを加えても十三目の得にしかならず、コミの分だけ重太郎が
負ける計算となるところだった。
 三郎は扇でサインを送った。たとえ他の者が見たとしても、煽っては肩を
打つだけだから不自然さは少しも感じないだろう。三郎が透視した通り、
重太郎が【4ノ三】に打った。松坂が【4ノ二】と受ける。以下、黒
【7ノ一】 白【6ノ二】 黒【6ノ一】 白【5ノ二】となり、三郎が
【8ノ二】に打てと透視をし、重太郎がそこに打つ。続いて松坂が
【7ノ二】と黒一子をポン抜いた時であった。最後の筋が重太郎にも解った
のだろう。
「ううん、なるほど。・・・あはっ、わっはっはっはっはー」
 いかにも嬉し気に重太郎がうなずきながら膝を叩いた。そして、腹を
抱えて豪快に笑い出したのである。これには三郎もびっくりすると共に、
呆れ返ってしまった。ひとしきり笑った後、重太郎が黒【9ノ一】に打ち、
松坂が【4ノ一】と黒三子を取る。黒【8ノ一】のコウアテに、白がその
コウをツグと三目中手の死があるのみ。白はツグにツゲないのだ。
「コウか。・・・・・」
 松坂が顔をゆがめて、うめき声をあげた。やむおえず、白は【6ノ一】
と眼作りの手入れを打った。途端に周囲からどよめきが起こった。
「うわー、大コウ勃発」
 ほんの盤脇で観ている寺元が目をまるめた。重太郎が【8ノ二】とコウ
を取った。十五子の白石の死活をかけたコウになったのだ。
「ううん、こりゃ参ったばい」
 松坂が苦し気に唇を噛んだ。終局間際になってからのコウだから、白に
は黒二子を取るコウ立てくらいしかなく、白が三十七目の損で黒の損は六
目となる。差引で白の三十一目の損で決着とならざるを得なかった。これ
で重太郎の大逆転勝ちである。
「コミを引いて十九目半勝ちか」
 作り終えて、顔をあげた重太郎が三郎の顔を見てにやりとした。松坂が
ガックリしたように肩を落とした。
「寺元さんをはじめ、儂に乗った皆さん方、損をさせて誠に申しわけなか」
「十中八九、松坂さんの勝ちと思っとったんじゃけんど、まあー勝負は時の
運、こればっかしは仕方なかろうばい。なあー皆さん、そうじゃろ」
 寺元が頭を下げた松坂の肩を軽く叩いて、皆の方に顔を振り向けた。
「けんど、あんな所にあんな凄い手があろうとは夢にも思わんかった。悔し
かけんど、さすがに牢破りの岩見重太郎と呼ばれとるだけの事はあるばい」
「あ、いや、松坂屋の旦那、あれは紛れじゃったとばい。あっはっはー」
 頭を掻いて重太郎が笑った。岩見重太郎の名が本名なのか知る者は誰も
いない。この賭碁師は終戦時の混乱期に闇ブローカーをしていて捕まり、
隙を衝いて粗末な拘置所から逃走したらしい。それ以来、中国の古書である
玄玄碁経に載っている【明珠出海】と題された詰碁の日本名【岩見重太郎
の牢破り】と呼ばれてきた。明珠出海とは、光る真珠が海を出て行くの意
だが、むしろ牢破りと題する方がぴったりするような詰碁である。
「いやはや、岩見さんも人が悪か。自分のヨミに自分で感心するとじゃけ
んね。あはっ、なんかアホらしくなってきおった。ああ、腹が減ったばい」
 近藤が腹に手を当てて、そっぽを向いた。永井と矢沢が顔を見合わせて
笑い出した。
「下に用意ができとるじゃろうけん、酒でも飲んで食べるとするか」
「おう、皆さん、早う行こう」
 佐々木が自棄気味に笑って、腰を浮かした。立花が立ちあがって、
それに同調した。
「立花さん、これ呼んどるんじゃろ」
 立花を呼び止めて、重太郎がニヤつきながら小指を立てた。立花が
頷いて、ふふっと笑った。皆でどやどやと階下の部屋に入った。部屋に
は横一列に膳が並べられている。三郎は重太郎の隣に、その横に小林
が胡座をかいた。女中がビールや酒を運んでくる。
「ちょいとこれ、芸者はきとるんじゃろうな」
「隣の部屋で先ほどからお待ちで御座いますよ」
「おう、そうかそうか。芸子はん方、早くお入り」
 女中が頷くのを見て、立花が声を張り上げながらポンポンと手を叩
いた。スーッと襖が開いた。
「お今晩わ」
 着物の裾を揃えて敷居の際に座った五人の芸子がいっせいに両手を
ついて頭を下げた。
「今夜は無礼講じゃけん、堅苦しい挨拶はぬきばい。早うこっちに来て
酌ばあして」
 手招きする立花の声に芸者たちは立ち上がると、膳の向こう側に来て
膝を折った。
「おっととっと・・・。ええっと、先ほどは運良く勝たせてもらったけん
ど、碁会はまだまだこれからじゃし、一寸先の勝負は分かったもんじゃ
なか」
「これ、岩見さん。挨拶はせんでもよか。乾杯じゃ、乾杯」
 寺元の音頭で皆コップを上げて、ビールを飲んだ。飲み干すと、芸
子が次々に酌をした。松坂が若い芸子の手を取って、その白い手を撫
でている。
「小林君、飲むのはほどほどにしとけよ」
 この後もたぶん打つだろうから、三郎は小林に釘を刺した。敷居の
向こうで姐さん芸者が三味線を弾き出した。それに合わせて若い芸子は
太鼓を叩く。残りの芸子三人は踊りを舞った。舞扇を片手にゆっくりした
舞いで、身体を反らしたりしている。三郎は見物しながら料理を食べた。
三人ともまだ若い芸子なのになかなか優美な舞い姿だった。
 ひとり舞いあり、ふたり舞いありして何曲か芸子が踊った。寺元が座
を立って、姐さん芸者と野球拳踊りをやり始めた。
「畑さん、こちらの弁護人が小林君と打ちたいと言うとらしゃる。そろそ
ろ二階に退きあげようか」
 重太郎が手の平を佐々木の方に振り向けた。佐々木を含めた三郎た
ちが席を立つと、立花や永井、近藤も後に続いた。寺元や松坂、矢沢
たちは芸者を相手にドンチャン騒ぎをやっているらしい。騒ぎ立てる音が
二階にまで響いてくる。
「小林君、勝負だけの五十万賭けでどうじゃろう」
 佐々木が小林に提案した。小林が三郎の顔を見た。三郎は大きく頷い
て見せた。
「畑さん、儂は佐々木さんに五十万親乗りで賭けたいのじゃけんど、
どうかね」
「よかですよ。じゃ、こっちは小林君に乗りもそ」
 立花の申し込みに三郎は即座に応じた。重太郎は永井と近藤の三人で、
どんぐり回しの目碁を打ち始めている。 
 握り結果、小林の先番で対局開始となったが、佐々木は部類の早打ち
だった。小林が打つと、佐々木はまるで機関銃のように打ち返してくる。
釣られて小林の着手も早い。三十分も経たぬのに中盤戦の難解な局面に
突入した。下辺一体の黒数子の生死をかけた攻防が始まりそうだが、三
郎のヨミに黒の助かる道はない。
「え、えへん」
 三郎は咳払いすると、煙草を取り出した。小林が顔を上げてチラッと見た。
そこは放置して打つなとのサインだが、小林はバタバタ、バタッと八手ばか
り打って、手を止めた。全滅したのが小林にもようやく判ったのだろう。小
林が顔を上げて救いを求めてきたが、三郎はプイとそっぽを向いた。小林
が挽回しようと打ち始めたので、三郎は温泉に入ることにした。小林の負け
を確信したからである。階下ではドンチャン騒ぎが続いていた。
 三郎は髪と身体を洗い、ゆったりと湯に浸かった。かなり広い浴槽なので、
洗い場が湯煙で霞んでいる。産まれてくる子が男か女か分からないが、両
方の名前をぼんやりと考えながら湯に浸かっていると、誰かが入ってくる気
配がした。
「あ、兄貴、勝手なまねをしてすいませんでした」
 やはり負けたのだろう。三郎の肩越しに小林が声をかけてきた。三郎は
振り向きもしなかった。今さら腹を立てても仕方ないが、三郎は暫し目を
瞑って気を静めた。
「あ、兄貴に損をさせた五十万は俺の分から」
「ちょっと待て。小林君、馬鹿なことをいうもんじゃない。痩せても枯れて
も賭碁師だぜ。負けたものは払う。でなきゃ最初から賭けるな」
「す、すいません」
「もうよか。けどな小林君、碁とは不思議なもんで、例え死にかけの石が
あったとしても打たずに味を残しておけば、その後の進行具合によっては生
還する事だってあるんだぜ。それにだ。その石を利用して色んな事が考え
られるし、手筋が発生する可能性だってあるんだぜ。もう一つ付け加える
と、どんな場合でも冷静さを失ってはいけない。仮に失敗しても頭にきたり、
腹を立てたりしてはいけない。それが賭碁師としての心得というか、絶対
条件なんだ。この事は肝に命じておいてくれ」 
「あ、兄貴、解りました。これからは気をつけます。本当にすいませんで
した」
 三郎の説教を神妙な面もちで聞いていた小林が頭を下げて、タオルで
顔を拭いた。三郎の顔から汗が滴り落ちた。三郎は浴槽から出て顔や身
体を拭き、脱衣所で服を着た。暖簾を潜って立花がやってきた。
「やあ、畑さん。二百万賭けの一番勝負でどうだろう」
「よかですよ。打ちもそ」
「もう今夜は目碁を打つ相手が決まっとるけん、明日やろうばい」
 頷いた三郎を見て立花が上着を脱いだ。
「じゃ、また後で」
 右手を挙げて、三郎は二階に向かった。芸者たちは帰ったのだろう。
階段を駆け上がって部屋に入ると、いきなり寺元から声がかかった。
「おう、畑さん、打とうばい」
「五、一の目碁ですね」
 寺元が頷いたので、三郎は対局を開始した。次の相手は松坂だった。
ふと、見回すと、小林は永井と打っていた。三郎は矢沢と打ち、佐々木
と打ち、近藤と打った。勝った方が重太郎に勝ち目数を告げに行く。重
太郎はそれを書き留めている。最後に永井と打って、三郎が寝たのは
明け方に近い四時過ぎだった。
 昼少し前に起きた三郎が飯を食っていると、欠伸をしながら重太郎が
入ってきた。
「おっ、旨そうな匂いじゃねえか。ところで畑さん、今日帰るのか」
「これ食ったら、立花さんとの勝負一本で帰るつもりでいもす」
「そうか。ええっと、畑さんは今のところ三百五十二万四千円の勝ち
じゃけん、その方がよかじゃろ。じゃ、立花さんとの勝負が終わった
時点で精算してやろうばい」
「岩見さんに折り入って頼みがあるとじゃっどん、小林君を預かって
もらえんじゃろか」
「おう、よかぞ。小林君のこっは、この牢破りの重太郎が確かに引
き受けたばい」
 重太郎が茶碗を無造作に掴んだ。重太郎に任せておけば、一人
前の賭碁師に小林を鍛えてくれるだろう。重太郎が食べ終えるのを
待って、ふたりは二階に上がった。部屋では立花と小林を除く六人
が目碁を打ち始めている。
「畑さん、早速打とうばい。今回は勝負じゃけん、改めて握り直しじゃ」
 立花がガバッと白石を掴んだ。結果は立花の先番。立花が第一着を
右上隅の星に打った。三郎は右下隅の三々に打つ。前の三局とも、立
花の大模様に三郎は実利で対抗したが、この一局も同様の進行で展
開しそうだ。
 三郎は徹底的に白地を稼いでいった。その分、黒は中央が大模様
化してきた。三郎の目算では今のところ、盤面で十目ほど黒がリード
している。勝ち碁を意識してか、立花の顔に余裕があり、にこやかさが
感じられる。三郎は煙草を取り出して火を点けた。
「おっ・・・」
 猟犬が獲物の匂いを嗅ぎ取った時のように、三郎は盤上の異臭を
嗅ぎ取ったのである。ヨミに間違いはなかった。三郎は黒一子にアタリ
をかけた。黒の勢力園内だから、立花は当然のごとく逃げた。
シチョウではないが、三郎は黒二子の出鼻を弾いた。黒が下方に逃
げる。白が弾く。黒が逃げた時、三郎はタイムリーのノゾキを打った。
下方の効き筋なので黒が受けた。下方の黒二子は白一子がアタリに
なるからゲタではないが、三郎はカケた。
「ん、あれっ、そ、そんな」
 立花が驚いたように目を丸めて、顔を上げた。下方の黒石にシボリ
が効いて、上方の黒四子がシチョウになるのだ。上下どちらかの取り
が見合いで黒の大模様が消滅した。立花が悔しそうに唇を噛んで、
石を投じた。
「黒が優勢のように見えとったけんどな。ううん、それにしても凄い
手があったもんじゃ」
「いやいや、実に鮮やかなヨミというほかはなか」
 松坂が唸ったのに続いて、寺元が首を振りながら腕を組んだ。重
太郎が問いかけた。
「畑さん、黒一子の時でも二子の時でも捨てて打てば、白に活路が
あったとじゃろか」
「そうですね。一子を取らせるならこうなりもす。・・・・二子捨て
るならこうです」
 皆、打つ手を止めて注目している。三郎はすらすらとヨミ筋の手順を
並べて見せた。
「ううむ、そこまで深くヨンじょったか。これじゃ勝負にならんばい」
 立花が目を見張って、溜め息をついた。重太郎がすくっと立って、
声を張り上げた。
「ええっと、一応ここで賭け金の精算をするばい。今やっとるのは
打ちかけにして、こっちにきてくれ。うん、先ず松坂屋の旦那が
百九十三万七千円の負けたい」
 金は階下に預けてあるので、松坂が取りに行った。重太郎が
再び口を開いた。
「次は立花さんじゃな。旦那は百四十八万二千円の負けばい」
 立花が下りて行くのと入れ替わりに、松坂が金を持ってきて重
太郎に手渡した。
「三番目は寺元の旦那、百十六万四千円の負けになっとるばい」
 重太郎は次々に告げていった。矢沢、永井、近藤等が百万前後
の負けで、佐々木が四十七万九千円の負けという結果に終わった。
重太郎が集まった八百万ほどの札束を選り分けて、三郎の方に差し
出した。
「一番多く勝った者が宿代他、全費用を出す決まりじゃけんね。
それを差し引くと、これが畑さんの取り分ばい」
 三郎は五百三十四万円の金を受け取った。重太郎の稼ぎは
二百十万ほどで、小林も三十八万ばかり稼いだようだ。
「今度は小倉でやる話しがあるとたい。決まったら連絡するけんね」
「岩見さん、その時はよろしく頼みもす。それじゃまた」
 三郎は別れを告げて、別府駅に向かった。列車に飛び乗った三郎は
ヒロミの事を思った。ふと、窓外を見ると、茜色に染まった空が海に
輝いている。
「親許にヒロミを連れて帰ろうかな」
 景色を眺めながら、三郎がぽつりとつぶやいた。

    
著者  さこ ゆういち       
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第3章牢破りの師匠