**集英社1988年度ノンノ愛のノンフィクションエッセイ佳作受賞 作品**
お暇があるお方は、お読み下さいませ(^^;
締め切り間近、ほんの数日で原稿用紙30枚程書きました。
親友の死のショックからものすごいエネルギーをもって、何かにとりつかれた様に
ただ、ただ、ペンを走らせたのでした。
今読むと、荒削りの文章で恥ずかしさもありますが、そこはノンフィクションの良さということで-(^^;
とにかく、当時の私は純粋でパワフル、まさに『情熱大陸』なのでありました〜(*^^*)ぷはっ
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- まあるい人生の上で - 雨の中、紫陽花が、淋しげ気にゆれていた6月の終わり、親友の死を知らせる電話が鳴った。昨年の春にも友と別れをつげたばかりだった。この6年半の間に一体、幾人の友が手の届かない遠いところへ旅立ってしまっただろう。 私たちの病名、若年性慢性関節リウマチ。原因不明。進行速度は個人差はあるが、発病より5〜6年で全身の関節が侵されてゆく。肩、肘、手首、指、首、あご、膝、足首、股関節・・・確実に攻め寄ってくる。全身が醜くゆがんでしまって自由が利かなくなっても病魔は許してはくれない。腫れた関節をこれでもか!これでもか!というように突っつき痛めつける。 6月、亡くなった親友まゆみの死因は、足からの転移による肺がんだった・・。元は4年前、右足の親指の付け根に腫瘍ができ、それが悪性の為、足首より下を切断せねばならなかった。リウマチという辛い病気の上に・・・義足をつけながら、その上、膝も120°に屈曲していたけれど、それでも、それでも松葉杖で歩いていたまゆみ・・・まゆみと私は、知り合って5年間、病歴、変形状態、背格好もよく似ていたこともあって、まるで分身みたいに付き合っていた。楽しい思い出が次から次へと走馬灯のように駆け巡る・・。どこにぶつけようもなく、こみ上げてくる怒りと悔し涙・・。あまりの悲しみに、神を敵に回して、何故?どうして?と繰り返し心で叫ぶ。 人生のスタートラインは、DCブランドに身を包み、街を闊歩している彼女達や、ウインドサーフィンで真っ黒に日焼けしている彼らたちと同じだった・・。彼等たちと手をつなぎ、前へ前へと一歩、また一歩、調子を揃え進めばいいのだ・・。小、中、高、大学、就職して、結婚、出産、老後に孫・・・それぞれに悩み苦しみながらも人生のポイントは同じ、それが「普通」、それが「当たり前」なのだ。 9才で発病した私は、入退院を繰り返しながらもなんとか学校へは通っていた。それが中二の修学旅行から帰ってきて、病状が悪化し、自宅療養を続けなければならなくなった。 受験で忙しくなった友の足は遠のいていった。そして、とうとう私の同級生達は卒業、私もついに、3年6組の私の席にただの一度も腰掛けることができなかった・・。悔しかった。 それぞれの希望校へ進学した友が、落ち着きを取り戻し見舞いにしてくれた。みんな高校生になって大人びて女っぽさを増したみたいだ。私と同じチビで子供体系の親友R子さえも大人びてふっくらしてしてきて照れ笑いしながら言った いつでも復帰できるようにベッドの上で毎日教科書を開いた。一度もカバンに入れたことない中三の教科書・・今にきっと・・けれど、私の足は筋力が落ち、まっすぐに体を支えられず、3m先のトイレに行くのさえ汗だくになる有様だった。そんな状態になりながらも諦めず、望みを持っていたのは、9才の時から何度もこういう目に遭いながらも再起できた経験があるからだ。 私のかすかな望みを無視して病魔は進行してゆく。立つたびに、歩くたびに、周りの人に聞える程、骨のきしむ音がする。不快で奇妙な音・・。ついに股関節に激痛がきた。恐れていた日がついに来てしまった。かろうじて、今日まで残されていた関節だった。真夜中泣きながら、布団を噛み、痛みをこらえた。立てない!立てない!立とうとするたびに激痛が走る。 悪夢が現実だと気づいた時、まあるい人生の上で一緒にスタートしたはずの彼等たちとは、まるで反対の裏側に私は立っていた。 17才の夏、一つの青い手帳を渡された。 他人の笑顔が憎らしい・・ 心は氷のように冷たく、刺々しく荒れてゆく。 自分が苦しみ、家族が苦しむ。悲しみの波紋が広がってゆく。 体全体がひとつの頭になってしまったかのように、来る日も来る日も死≠セけを考える。考えて考えて、私の頭の中は爆発寸前まで来ていた。 人生のスタートラインは、こんなんじゃなかった。手も足もまっすぐに伸びていた-もしかしたらもう一度、元の体に戻れるかもしれない。いや!戻れるはずだ。まだ、この体には歩いていた時の感覚が、記憶が残っている。4年前までは歩いていたのだ。もう一度歩けるようになりたい!!それが、できなくともせめて、せめて一秒でも立てたら・・。 歩行が出来なくなって4年間、私は車椅子で一歩も外に出たことはなかった。他人に見られることが恥ずかしかった。こんなに変わり果ててしまった体を見られることが恐かった・・。 外を見るのは車の中から眺め走る景色と、駐車場で車の中から見える景色。それでも私は、結構満足していた。しかし、車の中から楽しげな人たちをうらめしそうに見つめるだけの毎日じゃ何んにも始まらない。私は、強く生きる為の第一歩として、車椅子で外に出ることにした。その第一歩は、祖母の住んでいる熊本で、敢えて人の多い繁華街へ出てショッピングすることに決めた。私はその日の為に、何日も前から入念に心構えを考えた。 一、堂々と胸を張り、顔をやや上めにする。変に下を向いたり、背を丸めたりすると自分が惨めになるだけ。それに車椅子に乗っている-というだけで頭もおかしいと思われるのに・・頭は並、いや、あんた達より少しは上なんだゾ!というくらいの気持ちでいなきゃ!! 一、どんなに多くの人に見られても、意気消沈しないこと!心の中は動揺しても平然とするのだ!!一、買い物は自分でレジに持って行き、お金を払う。店員さんには、明るく元気にハキハキと答える。- 以上。よし!がんばるゾ!! 熊本の街は、知らない人ばかりが歩いている。知っている人と言えば親戚か、祖母の近所の人くらいだ。そんな安心感と解放感で、両親と三人街へと繰り出した。子供は真っ直ぐ素直に私に対して驚きと好奇心をあらわにする。子供だから-と思ってもやっぱりきつい、胸に突き刺さる。でも負けない!大人は見て見ぬふりをするのが滑稽なほどよくわかる。それが思いやりなのか、ただの無関心なのか、本当のことは分からないけれど、今の私にとってはやさしさに受け取れる。5年もの間、家に閉じこもっていた私には見るもの全てが新鮮で、5年ぶりの繁華街でのショッピングは、うれしくて、楽しくて、恥ずかしさとか人の目とかどうでもいいことのように思えてきた。満足感と充実感に包まれた私は新たな人生を歩んでゆけそうな予感がした。 そして、それから1ヵ月半も経たない8月のはじめ、祖母がこの世を去った。働き者の祖母は亡くなる数日前まで忙しく働いていた。80才だった。あれ程、私のことを可愛がってくれ、「不敏だ、不敏だ、代われるものなら代わってやりたい・・」と会う度に言っていた祖母・・。ショックだったけれど、悲しかったけれど、辛かったけれど、葬式の日私は泣かなかった。 祖母が亡くなって、わずか4ヶ月のうちに私の運命は大きく変わった。歩行が出来なくなって5年半、不思議な力に救われて約一年、もう一度歩けるようになれるチャンスが来たのだ。 22才になったばかりの冬、12月のことだった。 外見、印象派はともかく、これが一筋の光であり、ここが私の青春の地だった。 ここに私は、一年と9ヶ月入院した。 私と同じ痛みと苦しみ、そして悩みを持つ患者が2才足らずの幼児から70才すぎの老人まで世界中からここに集まってきて、水を得た魚のように活き活きと生活している。年齢も状態も様々、私の過去があり、将来がある。まさに、この病気の進行のプロセスを見るようだ。ライバルがいて、目標の人がいて、憧れの人がいる。 それから、職業も実に様々。サラリーマン、教師、社長さん、漁師、農業、主婦、美容師、自由業、ディスコのDJのお兄さん、学生、お医者さんもいる看護婦さんもそれに、ヤクザ屋だっているのです。年齢も地も人種も関係なく、みんなが「患者」という職業を持って、朝から晩まで、頑張り働く。誰が言い始めたのか、夕食以降のリハビリを「残業」と言いあっていたくらいだ。 薬の匂いと疲れるほどの安静・・これが普通の病院生活。ここでは休んでいると叱られる。 地元の大学病院では絶望視され、人工関節を勧められていた私の足。これは、現代医学では一つの奇跡だった。しかし、ここの病院ではこの奇跡≠ノ甘んじてはいられない。目標は常に上にある。それが、ここでの信念だ。 そして1ヶ月後、付き添いで5ヶ月間一緒に頑張って、励ましてくれた母に家に帰ってもらうことにした。今まで、トイレ、入浴をはじめ身の回りの世話を全部やってもらっていたから、母はとても心配していた。でも私は、1mも歩ければ、もう何んだってやれる気がしてならなかったし、やれる自身があった。人間というのは本当に勝手なもので、心身ともに元気になってきた私は、母が邪魔に思えてきた。友達といる時間を少しでも多くしたかったのだ。入院前は「母と一緒でなければ絶対入院しない-」などどほざいていた私である。心の中でペロリと舌を出して「でもこうならなきゃ、ここへ入院した意味はないのよ-」と自分に、そして母に言い聞かせた。 トイレだって、入浴だって、洗濯だって、服の着脱だって自分で出来る! 型破りのこの病院では多くの楽しい行事があった。ディスコパーティー、花見、夏祭り、クリスマス、もちつき大会etc・・。けれど、始めてのディスコパーティは、かなり深く印象的だった。最初にディスコパーティ≠ニ聞いたとき、私は不自然というか、奇妙というか、とにかく不思議な気がした。だって、ろくに、手足は動かないどころか、歩くのもやっと、ましてや歩けない人もいる。一体どうやって踊る≠フでしょう。それに、あちこちの墨にトレーニングの機械や用具がある。殺風景な体育館ですよ。体が動かない分口ばっかしが達者になった私はあれこれ考えながらも、ちょっぴり期待を胸にいつもの汗まみれのトレーニングウエアを脱ぎ捨て、慣れぬ手つきで薄化粧をし着飾る。友達の美しさ再発見!自分は・・まっいいっか! 友達と、ワイワイしゃべりながら時間を待つ。辺りはもう暗くなっている。 破壊された骨に落ちてしまった筋肉。硬く縮こまった筋・・この足を鍛え、この足で体重を支えようとするのだから、そんなに簡単に順調にはよくならない。ある程度の状態でストップしてしまった。 そんな友たちが、人間の力ではどうすることもできない運命という波に呑み込まれ、ひとり、またひとり・・私の側から去ってゆく。 幸福の前に立ちはだかっている不幸。 常に不幸に怯え、幸福にしがみついて生きる人より、不幸に身を置き、小さな幸福にも喜べる私たちは、ある意味においては幸福なのかもしれない。-とは言ったもののやっぱり、街で行き交う人々を見るたびにこの街に私より不幸な人なんているのだろうか・・≠ニまたもや思ってしまう私。 それでも、明日はやってくる。 1988.夏 |